1946年12月、ソ連と当時日本を統治していたアメリカとの間で抑留者の帰還に関する協定が結ばれ、帰国が始まりました。
田浦さんにも「日本に帰るから準備しろ」と通告があり、抑留者が帰国するときの拠点になっていたナホトカの港に向かいました。
1948年9月、田浦さんが抑留されて3年が経った日のことでした。
日本の国旗を掲げた迎えの船を見た時のことは今も鮮明に覚えています。
「そりゃ涙が出た。そんなときやっぱり、これでうちに帰れると思った」
ふるさとの輪島で、田浦さんは7年ぶりに家族と再会しました。
「(母が)抱きついてくれた。よく帰ってきたと言って。」「うれしいどころじゃない、生きていただけで…」「戦争だけは絶対にしたらダメ。自分がやられたときどうだということ。自分がやられたときの気分、相手も同じこと。昔からたとえ言葉がある。わが身をつねって人の痛さを知れ、と。」