去年、ノーベル平和賞を受賞した「日本被団協」の代表の1人を務める女性が松江市にいます。唯一の戦争被爆国で、被爆の記憶を次の世代にどうつなげていくのか。
被爆者の母親から言われた言葉は「8月6日はテレビを切って」。
母の言葉を胸に、ノーベル賞を受賞した意味と向き合っています。
本間恵美子さん
「(母は)広島への入市被爆(原爆投下後に爆心地に入り被爆)ですね。なので6日にその場に居たわけではないので。8月6日も、あさ8時からの(平和祈念式典の)番組が始まると『もういいから(テレビ)切ってちょうだい』っていつも言ってました」

本間恵美子さん、75歳。
母が広島で被爆。本間さんは被爆経験のない「被爆2世」です。
2013年に亡くなった母・淳(あつ)さんは生前、被爆体験を娘に一切語らなかったといいます。
本間恵美子さん
「『そのときどうだったの?』って言うのは聞いたんですけど、『すごかったよ』というひとことで、次、何も言わなかったので。私も何も聞かなかったんですね。思い出すのも嫌だったのかなと思って」
1945年8月6日、広島。9日、長崎。アメリカにより投下された原子爆弾。
その年に、広島で14万人、長崎で7万人が亡くなりました。
原爆による後遺症は、80年経った今もなお、被爆者の体と心を、苦しめ続けています。

1956年、被爆者自身が中心となって日本原水爆被害者団体協議会、「日本被団協」を結成。核兵器の非人道性と廃絶を国内外へ訴え続けてきました。
母の死後、島根県の被爆者協議会で活動していた本間さんは、去年6月、被爆2世として初めて日本被団協の代表理事の1人に就任しました。
本間恵美子さん
「やっぱり話したくない…母もそうですけど(被爆者は)とくに2世は親から話を聞いている人がほとんどいないんですね。(被爆)体験じゃなくて聞いた話を第三者にする場合に本当に伝わるのかというのは、2世ならだれもが思うところ」
被爆2世としての伝え方を模索するなか、日本被団協が、ノーベル平和賞を受賞しました。

ノルウェーで開かれた授賞式に参加した本間さん。
印象に残ったのは、ノーベル委員会・フリードネス委員長のスピーチでのある言葉でした。