「今でも脳裏に刻まれている」墜落機発見のパイロット

JNNが新たに入手した墜落事故の翌朝、現場で生存者の捜索などをおこなう陸上自衛隊・第一空挺団の活動記録の映像。
煙がくすぶる山。なぎ倒された木々の中には、破壊された機体がいたる所に散らばっている様子が写っています。隊員たちは、その残骸をかき分けながら必死の捜索を続けていました。
事故当日、羽田空港で撮影された123便の離陸前の様子。

午後6時12分、大阪に向け出発した123便は伊豆半島上空に差し掛かったところで異変を起こし、旋回を続けていましたが、その後、信号が途絶えました。
そして、午後6時56分、日本航空123便が墜落。それからまもなく、茨城県の百里基地から 2機の戦闘機が捜索に向かいました。
その戦闘機に搭乗していた航空自衛隊の元パイロット・渡辺修三さんと南尚志さん。今回、カメラの前で初めて証言しました。
離陸した際は、情報が錯綜していたといいます。

渡辺修三さん(当時二等空尉)
「最初のインフォメーションは、『飛行機、米軍か何かが落ちた』」
南尚志さん(当時三等空尉)
「『民間機が行方不明になった』みたいな。日航のジャンボ機なんて、すごく大きな飛行機が落ちたという認識は全然ありませんでした」
基地を出てから約20分後の午後7時15分に、123便の信号が途絶えた地点に到着。あたりは暗く、薄雲で覆われていて上空からの捜索は困難を極めました。
しかし、その5分後の午後7時20分。

南尚志さん
「ぱっと雲が切れて、そしたらオレンジの明かりがドンと急に、ブワッと燃えているのが見えた。墜落して火災を起こしたと瞬間的に理解して、本当に絶句でした」
渡辺修三さん
「炎の色と燃えている状況、今でも脳裏にはしっかりと刻まれている」
一夜が明けた13日午前8時半ごろ、陸上自衛隊第一空挺団が現場に到着。生存者の捜索、地形の把握などの任務のため活動を開始しました。
小隊長として活動にあたった岡部俊哉さんは、想像を絶するほど悲惨な状況だったと話します。

岡部俊哉さん(当時二等陸尉)
「ディズニーランドの帰りだというのがわかるキャラクターのぬいぐるみがかなりの数落ちていました。人間がこれだけボロボロの状態になってるのに(お土産の)ぬいぐるみが綺麗な状態で残っている。人間ってこんなに脆いものか。むなしさとか苦しさが同居してるような思いだった」
部分遺体が散乱し、「生存者がいるとは思えない」そう感じていた岡部さんの元に、生存者発見の知らせが届きます。
岡部俊哉さん
「この地獄から生還された奇跡は、驚きとともに、生きていてくれて本当に良かったという思い」