被爆地・長崎の戦後史

長崎の戦後の歩みは、常にもう一つの被爆地・広島を意識するものだった。被爆から2年、GHQのマッカーサー元帥が広島にメッセージを送ると、長崎に対しても声明を望む投書が寄せられた。
広島で原爆の日に平和祭が盛大に行われると、なぜ長崎では行われないのか不満が渦巻いた。3年後には広島の復興の様子が大きく報じられた。

被爆から4年を迎えると、広島を追いかける形で11日間にわたる盛大な文化祭。爆心地で、打ち上げ花火に盆踊り大会が行われ、記事には「あの日の犠牲がきょうの佳き日を招いた」とある。
被爆の遺恨を保存するか否か。広島も長崎も議論が揺れた。広島は被爆から21年経って、原爆ドームの保存が決まった。
長崎では、被爆4年後から長崎市長の諮問機関で議論を重ね、浦上天主堂の廃墟を保存することで固まっていた。当時の田川務市長も保存の意向を示す。しかしアメリカを訪問した後から態度が変わる。
田川市長答弁(長崎市議会 1958年2月17日)
「原爆の悲惨を物語る資料としては適切にあらずと、平和を守るために存置する必要はないと、これが私の考えかたでございます」
市議会は全会一致で保存を決議するも、市長は頑なだったという。そして廃墟は撤去され、その一部だけが爆心地に移築された。山田かんはこう指摘した。

「被爆象徴として旧浦上天主堂」より
「残されたものは原爆の矮小化の危険さえはらむミニチュアに過ぎなかった。戦争の惨虐の極点として位置しつづけてきた天主堂廃墟を『適切にあらず』として抹消するという思想は、国を焦土と化した責任を探索せずに済ましてしまうという、まことに日本的な『責任の行方不明』である」

『怒りの広島』『祈りの長崎』。かつてそう言われた被爆地がともに大きく踏み出した年がある。元広島市長・平岡敬さんは戦後50年、国際司法裁判所で当時の伊藤一長長崎市長とともに「核兵器の使用は国際法違反」と訴えた。
アメリカの核の傘に頼る国の方針と異なる陳述をすることに、伊藤市長は悩んでいたという。
元広島市長 平岡敬さん
「彼は自民党出身の市長でしたから、かなりプレッシャーがあったと思うんです。ずいぶん悩んでた」
そんな伊藤さんの背中を押したのが平岡さんだった。

元広島市長 平岡敬さん
「広島は『国際法違反』ということで行くから足並み揃えたほうがいいよと言ったら、彼は『わかった』と。それから彼は『国際法違反』という陳述を私と一緒にやったんです。非常に素晴らしい陳述だった」

伊藤一長 長崎市長(当時)
「核兵器の使用は国際法に違反していることは明らかであります。(この写真は)焼死した少年の黒焦げの死体です。この子どもたちに何の罪があるのでしょうか?この子らの無言の叫びを感じてほしいのです。長崎市民の半世紀にも及ぶ、核兵器廃絶への悲痛な訴えと世界平和への願いをご理解ください」
元広島市長 平岡敬さん
「彼は吹っ切れたのでしょう。変わりましたね。すごく平和運動に熱心になった。多分その陳述がきっかけだと思います。伊藤さんを変えたのは市民の声だろうと思います」
それから30年。「核なき世界」は遠ざかるばかりだ。平岡さんはアメリカに過ちを認めさせることが核兵器廃絶の第一歩だと考えている。

元広島市長 平岡敬さん
「アメリカの責任を追及していくべき。それはやっぱり広島・長崎が足並みを揃えてやっていくべきだろうと。それが被爆地の生き残った者の責任だと思います」
詩人・山田かんが昭和天皇崩御の朝に思い出していたのは、被爆翌日の父の姿だった。

「大声で哭きつづける とうさん。道端は屍臭と火気と塵煙が黝々と渦巻いていた。中学三年のわたしは困惑だけだった。そして思った。
ダイガコンゲンセンソウバ、テイウタッチャ ソイハミンナ大人タチガシタトデシタイ(誰がこの戦争を、と言ったって、それは大人たちがしたことですよ)」
