ママさんハードラーの競技歴とリーダーシップ
その種目を牽引し続けて来た寺田とは、どんな選手なのか。高校は北海道の恵庭北高で、インターハイ100mハードルは3連勝。3年時には100mにも優勝した。指導者の中村宏之氏(今年4月に逝去)は100m日本記録保持者の福島千里ら、多くの日本トップ選手を育てた名伯楽だ。寺田は高校卒業後も北海道ハイテクACで中村氏の指導を受け続け、卒業1年目の08年から日本選手権に3連勝。08年は18歳で、この種目の史上最年少優勝者になった。09年は13秒05で2度走り、当時の日本記録だった13秒00の更新も期待されていた。
09年はベルリン世界陸上にも出場したが、その後はケガが続いて低迷。12年ロンドン五輪代表を逃し、13年には競技から引退した。陸上競技の世界から離れたかった。しかしトップ選手としての経験や引退後の生活が、寺田の人間としての幅や判断力を広げていく。14年に出産。16年から7人制ラグビーに取り組み、本気で日本代表を目指した。その間に大学院に行き、普通のOLとして仕事も経験している。
そうした経験をした上で29歳だった19年に、もう一度陸上競技で世界を目指そうと決心した。「第1次陸上競技時代」(寺田)は恵庭北高、北海道ハイテクACと、中村氏の指導で結果を出すことができた。だが29歳で陸上競技に復帰したとき、別のやり方で世界に挑みたいと考えた。家族を持つ一人の女性として育児、家事など競技以外のことを優先して行う生活環境で、同じ強化スタイルでトレーニングを行うのは不可能だった。
家庭にいるときはトレーニングはいっさい行わないが、グラウンドに出たときはその分、気持ちを切り換えて集中する。慶大の高野大樹コーチの指導を受けたが、トレーニングについて何時間も話し合った。自分が納得できる方法で進みたかった。復帰後の寺田はコミュニケーション能力を発揮し、ライバル選手たちともハードルの技術論、トレーニング論を積極的に行った。レース後の更衣室は、女子会のようなノリで陸上競技談義が繰り広げられたという。日本記録保持者の福部も低迷期があったが、寺田に相談しながら復調のプロセスを歩んだ。田中も寺田の背中を追って強くなった。
寺田が代表チームに入った頃は、選手同士が腹を割って話し合う雰囲気ではなかったという。それではせっかく代表になっても、学べるものが少なくなってしまう。「世界と比べたら女子短距離、ハードルはまだまだ力が及びません。そこに挑むには1人の力では足りなくて、日本チームとしてみんなで力を上げていかなければいけない。困っている人がいたら後押しをしたりして、みんなが代表チームで頑張る雰囲気を作りたかったんです」12秒台ハードラーが一気に増えた理由の1つに、寺田のこのスタンスがあったと、多くのハードル関係者が指摘している。

















