福岡大空襲を生き延びた少女

福岡大空襲は終戦の年、1945年6月19日の夜に起きました。あさっての夜がちょうど80年目にあたります。米軍の戦略爆撃機B29が200機を超える大編隊を組み、有明海から佐賀県の背振山頂を越え、福岡市の上空に侵入してきました。空を想像してほしいのですが、200機以上が深夜11時過ぎから約2時間、住宅密集地に焼夷弾をばらまいたのです。
福岡市中央区の簀子(すのこ)地区は、被害が激しかったところです。6月15日(日)、旧簀子小学校跡地の隣にある圓應寺(えんのうじ)で「福岡大空襲戦災死者慰霊祭・80年忌」が開かれました。参列者の中に、入江住子さん(93歳)がいました。当時13歳、高等女学校の生徒でした。

入江住子さん:1945年6月19日の晩、父親が「今日の空襲は絶対普通じゃない、みんな起きれ、起きれ」と言って。いつも防空頭巾を首に巻いていましたけど、寝る時は枕の代わりにして寝ています。私が4歳くらいの時に母が半身不随となり、寝たきりでおりました。それで父親が男帯で母をおんぶして、姉と妹と4人、お父さんお母さんと逃げました。一番大きい布団の四隅をみんなで抱えて、母を父がおんぶしたのを守って浜まで来ましたが、その時にはもうお布団がどこにいったか分からないようになっていました。
入江住子さん:防空壕が3つくらいあったんですが、全然入れなかった。「母だけ、どうぞ入れてください、足だけでも頭だけでも入れてください」と。ちょうど6月で防空壕は水浸しだった。膝の上くらいまでの水の中に入って、父親と子ども4人はもう防空壕に入れなくて。
入江住子さん:照明弾で言うんでしょうか。空がもうすごく明るく、蟻が這うのが見えるような明るさになるんです。そうしたら焼夷弾がすぐ落ちてくる。落ちてくる時に、バチーン、バーンと音がして、焼夷弾を束ねたベルトが外れるんです。明るいから、焼夷弾が家にどんどん突き刺さって落ちていくのがもう本当に分かって、身動きができない。いつ当たるか、いつ落ちてくるか、そればかり見ていました。
入江住子さん:箱崎(現在の福岡市東区)の方から飛行機がどんどん、「もうぶつかるんじゃないか」というくらいの数で来るんです。姪浜(現在の西区)の方に飛行機が行ったと思ったら、また姪浜の方からまたこっちに来て帰りも焼夷弾、焼夷弾。今考えてみてもどうして私が生きておられるのか、不思議で。うちの家族は少しもやけどを負っていなかったんです。夜が明けるとともにみんな倒れているのが……防空壕に入ってなかった人がたくさん死んでいました。
13歳の少女が見た福岡大空襲の様子ですが、「防空壕は水浸しだった」「照明弾で明るくて蟻まで見えるくらいだった」など、本当にリアルです。200機以上の大編隊が頭の上を往復して飛び交い、焼夷弾をずっと落とし続けていた。朝起きたら、不発の焼夷弾がいっぱい地面に刺さっていたそうです。
赤坂交差点と呉服町交差点が投下目標だったとのことでした。町は丸焼けで、大手門から呉服町が見えたそうです。