70年草木も生えないと言われた広島に、路面電車が走った─。原爆が投下されてから、わずか3日後、懸命な復旧作業により、一部区間で復旧。がれきの中を走る路面電車の姿は、傷ついた人たちに勇気を与えました。いまも広島の人たちや、観光客に親しまれている路面電の記録です。
7日未明。営業を終えた新しい広島駅ビルに鳴り響く拍手。この日、駅ビルに乗り入れる新しいルートの試運転が行われていました。偶然居合わせた人たちが拍手を送ったのが、ホームに到着した「一番電車」でした。

「なつかしいですね…」。2004年9月、広島電鉄の千田車庫(広島市中区)で元社員の山崎政雄さんはつぶやきました。目の前にあるのは、652号と書かれた電車。あの日を経験した電車の一つです。
山崎さんは、爆心地から2.4キロ離れた己斐駅で被爆しました。直後から周辺の様子は一変しました。
山崎政雄さん(2004年9月取材)
「けが人、ヤケドで皮膚が半分垂れ下がったというような、地獄ようだった」
当時、市内電車は123両あり、このうち108両が被害を受けました。己斐駅には2台停車していたといいます。窓ガラスが割れはしましたが、大きな被害はありませんでした。
人手や復旧資材の乏しい中、懸命な作業が進められ被爆3日後には、己斐ー西天満町間が復旧。その試運転、「一番電車」のハンドルを握ったのが山崎さんでした。

山崎政雄さん
「上手く運転できるかどうかが一番心配でした。沿道の人達が、ガレキの中で家屋や家財道具などを整理する人がたくさんいて、その人たちがが電車を動くのを見て、非常に驚いた格好で見ていた。広島には70年草木は生えないという噂があったにも関わらず、電車が動いたということは、一般の市民を大変勇気づけられたんじゃないかと思う」