戦争体験者やその意思を継ぐ人の思いをシリーズでつなぐ「#あなたの623」。今回は9歳で沖縄戦を体験した、古波鮫マサ子さんです。避難していた壕を日本軍に追い出されたあと、母親の決断で北部へと避難しました。その道中の回想録です。

去年11月。娘や孫たちと一緒に、ドライブに繰り出したのは、那覇市に住む古波鮫マサ子さんです。



▼古波鮫マサ子 さん(取材当時88歳)
「旦那はうちなーで暮らすって?」
▼孫・佳奈子 さん
「うちなーで暮らすってよ」
▼古波鮫マサ子 さん(取材当時88歳)
「そりゃ良かったさ。おばあとしては近くにいてほしい」

車内の話題は、最近東京出身の男性と結婚した孫の今後について。「家族が増えると楽しい」が古波鮫さんの口癖です。



3か月前の米寿のお祝いでは、子や孫ら合わせて36人に祝福を受けました。戦後80年の節目の今年訪れたかったのは、沖縄戦で命をつないだ場所でした。

玉泉洞に避難も日本軍に追い出され沖縄本島北部へ決死の避難



沖縄戦当初、9歳だった古波鮫さんは、八重瀬町具志頭で暮らしていました。そこは日本軍の玉砕兵器・特攻艇の壕に近く、やがて米軍の航空機が頻繁に低空飛行するようになり、玉泉洞へと避難します。そこには日本兵もいたといいます。



▼古波鮫マサ子さん(取材当時88歳)
「かわいそうだったよ。昔の兵隊は。何を悪いことをしたか分からないけど、太刀をこういう風に下げている人が、20~30人ぐらい並ばせて、叩くもんだから。子どもながらに、何か悪いことしたのかなぁって」

若い日本兵らの痛ましい姿を見るなか、さらに兵士が増えると……。

▼古波鮫マサ子さん(取材当時88歳)
「自分たちが押し出されたわけ。母親が『もうこっちでは死ならんさ』と言って、やんばるに逃げた。辺野古まで逃げた」

壕を追い出され、古波鮫さんの母・キヨさんは「沖縄本島北部への避難」を決めます。南へ逃げる住民と、北へ逃げる住民とが入り乱れ、米軍上陸の噂が流れるなか、まだ首の座らない妹をおぶって、約3日間、歩き続けたといいます。



▼娘・和枝さん
「一緒にいる人たちに『この子はおいて行きなさい、捨てなさい』と言われたって」
▼古波鮫マサ子さん(取材当時88歳)
「捨てなさいっていわれたんだけど『親は生きても死んでも一緒』と言って捨てなかった」

80年前 戦火から命守った場所 家族につなぐ 



北部へ向かう途中、つかの間の休息をとり命をつないだ場所こそが、今回家族を連れて訪れたかった金武観音寺です。

▼古波鮫マサ子さん(取材当時88歳)
「こっちのガマにいたんだけど、避難民がいっぱいだったわけさ」

境内にある鍾乳洞に一度入るも、多くの避難民が身を寄せていたため、長居することはできませんでした。外に出て向かったのが、フクギの木の下でした。

▼古波鮫マサ子さん(取材当時88歳)
「この木の下で。この木の後ろに隠れていたはずよ。飛行機が低空でビーッといきよったからね」



金武観音寺の参道にたつフクギ。まわりの木々よりひときわ大きく、樹齢350年ともいわれています。米軍機が低空飛行する中、古波鮫さんの家族はこの木の下に身を潜めました。



▼古波鮫マサ子さん(取材当時88歳)
「エネルギーをもらう。ありがとうございます」

この場所で休息を経て、名護市辺野古へと辿り着いた古波鮫さん。そこで捕虜となり終戦を迎えました。

金武観音寺の訪問から半年……。

▼孫・佳奈子 さん
「来週もう生まれる。さすってくれる?」
▼古波鮫マサ子さん(取材当時88歳)
「早く出ておいでよ」



7人目のひ孫が、もうすぐ家族に加わります。沖縄戦を体験して思うことは―。

▼古波鮫マサ子さん(取材当時88歳)
「やんばるまで逃げていったけど。今だったら逃げないでおく。戦争があったら家にいておくと思ったよ。2度ともう戦争は味わいたくない」

結果的に命はつなぐも、戦場に「安全な場所」は存在しなかった。それが古波鮫さんの沖縄戦です。