芸歴77年、毒舌タレントとして知られる毒蝮三太夫さん(89歳)が、これまでの人生や今後の展望について語りました。立川談志さんとの出会いが人生の転機となり、「毒蝮」という芸名で活躍するきっかけになったことや、終活ではなく『愁活』をしたいという思いをTBSのインタビューで明かしました。

毒蝮三太夫さん



芸能界デビューは偶然の産物でした。毒蝮さんは「中学1年の時に子役を募集に来たのよ。それはマッカーサーが、戦災孤児が不良少年になるのを防ごうと『鐘の鳴る丘』というドラマを作ったわけだ。菊田一夫っていう人が。そのドラマの不良少年の役を学校に募集しに来たんだよ。」「その時に俺の友達が受けたんだけど、そいつが落っこっちゃって俺が入っちゃったんだよ。」と、回顧。終戦後の少年時代、数奇な運命に導かれ「俺は芸能界に入っちゃった」と振り返ります。

毒蝮三太夫さん



その後、昭和41年頃にはウルトラマンシリーズの隊員役で大人気に。「あんな、オレンジ色の服着て、恥ずかしかったよ。あんなに人気が出ると思わなかった」と当時を回想しました。


毒蝮三太夫さん
毒蝮三太夫さん



毒蝮さんにとって、人生の転機となったのは立川談志さんとの出会いでした。「人生のターニングポイントっていうのは、立川談志だよね」と語る毒蝮さん。談志さんは「『寄席の世界来いよ』って、7年も俺を口説いた」「『俺たちの世界来いよ』って。『俺の番組出ろよ』って言うんで笑点に出たのよ。それも『座布団運び』。やりたくないよあんなもの。ウルトラ警備隊で地球を救ってんだよ。それがなんで、円楽の座布団運ばなきゃならないのかって。『やだよ』っつったら。(立川談志さんが)『でもやってみろよ』と。」と振り返ります。

立川談志さんと毒蝮三太夫さん



談志さんからの「お前は役者よりも1人で喋った方がいいんだ。一人喋りをやれよ。スタンドアップコメディアンになれよ」という言葉が、毒蝮さんの背中を押しました。「彼がいなかったら今仕事してないよ。90歳近くなって俳優の仕事なんて無いよ」「名プロデューサーだったね。あんな嫌なやつはいないよ…でも、長く付き合えば、こんなにあったかくて、こんなに江戸っ子で、人情深いやつはいなかった。今は分かるね…。」と談志さんの慧眼に感謝の気持ちを表します。

毒蝮三太夫さん