痛ましい「公害」の跡 100年以上経っても…

今から140年前の明治20年頃。足尾銅山では、当時の最先端技術を導入し、積極的な銅の採掘・製錬を行っていました。ところが、亜硫酸ガスの煙害で、山の木々が枯れていきます。

この惨状を告発し、天皇に直訴したのが政治家・田中正造。その被害は世間に知られ、日本初の「公害」とされました。

しかし、それから100年以上経っても痛ましい「公害」の跡は残ります。現在も、閉じた鉱山や廃棄物の堆積場などから出る水の浄化処理や、下流域で水質のモニタリングが続けられています。

一方で、煙害によって消失した森林面積は、2400ヘクタールにおよび、山手線内側のおよそ4割に達します。