「庶民の味」だったクジラ 鮎川は“抹香の城”
奥海さんが魅せられたクジラ。その肉は高タンパク低カロリーで栄養も豊富。かつては価格も安く「庶民の味」として学校給食でも提供されていました。

おしかホエールランド・山本龍治 学芸員
「昭和の時代、特に第二次世界大戦の後は日本中の食糧難を鮎川の捕鯨が支えたりもしていた」
学芸員の山本さんは鮎川に捕鯨会社が集まった理由をこう語ります。
おしかホエールランド・山本龍治 学芸員
「金華山沖だと『抹香の城』と呼ばれるくらいマッコウクジラが非常に多くいたことが分かっている」

金華山沖での捕鯨。
クジラを見つけるとモーターボートで追い、海面に浮上したところにすかさず銛を撃ち込みます。
捕獲したクジラは5人ほどが手作業で解体し、1頭をものの数時間で食用の肉として切り分けます。

奥海良悦さん
「自分の言うことを聞いてくれるのさ包丁が。ただ“切る”のなら簡単だが“切らす”というのが難しい」
旧牡鹿町の鮎川では8割の人がクジラにかかわる仕事をしていたとも言われています。1960年代、鮎川を含む牡鹿地区の人口は今のおよそ6倍となる1万3000人にも上りました。
奥海さんも当時のにぎわいを鮮明に覚えています。
奥海良悦さん
「地元の人たちだけではなく全国から人が来ているから、慰労の意味も込めて鯨まつりを盛大にやっていた。すごかったですよ、戦後の鮎川は。小学校で1学年4クラスとかあった。110人とか120人」※2025年度の新入生は1人
しかし、町の繁栄は昭和の末期には終焉を迎えます。