ベトナム戦争をハノイから伝える
大山 ハノイにおいでになったのは、昭和41年(1966年)ぐらいですよね。
田 42年(1967年)です。
大山 その結果生まれたのが「ハノイ 田英夫の証言」ですね。あれは特別番組として作られたんですか?
田 あれはね、帰ってきてすぐ、まず「ニュースコープ」で一週間ぐらい続けてやったんです。その後、帰国から2カ月の間に作り上げて、ハノイに行ったのは8月ですけど、10月30日に特別番組、芸術祭参加番組という格好で放送しました。夜中の1時近く、深夜ですね。当時はハノイに行くこと自体、ほとんど不可能だと思われていたんです※ 。
※ アメリカと戦争状態にある社会主義国の北ベトナム (ベトナム民主共和国。首都ハノイ)への入国は困難だった
大山 そうでしょうね。
田 北ベトナム側から見た取材というのは大変珍しかった。そのきっかけは、前年の夏に、日本新聞学会という、今でもありますね、新聞社の現場の人、ジャーナリズム学者、テレビ局ももちろん、そういう関係者が一つの学会をやる。
そこで、報道の現場の立場からベトナム戦争について一時間ぐらい話してくれと言われて、とりとめのない話になってもと思ったんで絞ったのは、毎日報道してるとどうしても通信社から入ってくる記事をあてにせざるをえない。つまりはサイゴン発APとか、ワシントン発UPIとか※、要はアメリカのニュースソースのものがほとんどなわけです。そうすると「南ベトナムとアメリカ」に対して「北ベトナムとその後ろにいる中国、ソ連」という図式であるにもかかわらず、われわれが伝えるニュースはほとんど全部、アメリカ側、西側のニュースだという感じがする、と体験も含めて話しました。
※AP通信(Associated Press)、UPI通信社(United Press International)、どちらもアメリカの通信社
そしたら、東大の新聞研究所の所長が共同通信の先輩だったんです。その方が、新聞研究所で朝日・毎日・読売の三大紙の紙面に載ったベトナム戦争のニュースのソースを調べたら、アメリカが85%かな。それに対して、ハノイ側は5%ぐらい。残りが第三国、日本も含めてですね、ということを言われたんです。
そのことをその夜、すぐに報道局長の島津さん※に話しましてね。
※ 島津国臣 当時の報道局長
「実はこういうことを聞いたんです」と。「北ベトナム側から見たベトナム戦争はどうなのか行ってみたい」って言ったんですよ。そしたら「それはいいじゃないか」って。ただ、日本がアメリカ寄りなのは世界的に分かってるから、北ベトナムが取材を認めるかどうかは大変難しいだろうと。実際、本当に1年かかりました。
それが41年の6月頃です。そしてちょうど1年後の6月に「どうぞいらっしゃい」となって、私とディレクターと二人で行きました。カメラはちょうど日本のクルーが現地に行ってたんです。それはちょっと問題になったんですけど。北ベトナムへ入ることができているということは共産党につながってるんじゃないかとアメリカが後で批判しましたね。僕はカメラは嘘はつかないといって、説明したことがありましたけど。
行くまでが大変でした。カメラそのものはこっちから持ってったんで、大変な荷物を二人で背負って。当時ハノイに入るには、まず香港に行って、香港から中国の広東に入って、そこから南寧っていうベトナムのすぐ近くの都会へ行って。そこで、また飛行機を乗り換えて。
中国はまだ文化大革命の頃で、たいへん緊張してました。本当にベトナムと中国、どっちが戦争してる国かと思いましたよ。で、実際ハノイに行ったら、まったく日本で考えていたベトナム戦争と違う。つまり、ほとんど世界中がアメリカの勝利を大前提にしていたんですが、意外にもベトナムの人は悠々と戦ってるんです。戦いそのものは厳しい状況ですが、本当に「ハノイの微笑」※、本の方はそういう題にしたんですけど、文字通り微笑をたたえながら戦ってる感じなんです。
※ 「ハノイの微笑―戦う北ベトナムの素顔」(1968年)田英夫著 三省堂新書
帰ってきてからの報道でも、アメリカが負けてるということは伝えませんでしたが、実際の感じとしてはそうでした。それをどう表すかは、非常に苦慮したところですけれど。
大山 何日ぐらいいらっしゃったんですか?
田 1カ月を超したと思いますね。ハノイに着いて、ハイフォンとか、それから一番肉体的にも精神的にも苦しかったのは、南の方にずっと下ってったんです。
当時日本で考えられてたのは、いわゆるホーチミン・ルート※ が造られていたので、南のベトコン※※への食料や物資、弾薬などはそのルートで送ってるんだろうと。そのルートとは別に、国道一号線という、ずっと海に面して南に下る道があるんですが、この道には橋がたくさんある。その橋はみんな落とされているので通行不能だろうと思っていました。つまり、物資はホーチミン・ルートを使って、ラオス・カンボジアを通って送ってるというのが日本なんかで考えられていた常識だったんですよ。
※ 支援物資などを北ベトナムから南ベトナムに送るため、米軍の空爆を避けて作られたジャングルの中やトンネルなどの秘密ルート。北ベトナムの指導者ホー・チ・ミンの名前から名付けられた
※※ アメリカの支援によって成立したベトナム共和国(南ベトナム)政府と戦っていた南ベトナム内の抵抗組織
そこをアメリカなんかが爆撃しているというのが常識のように考えられていたのに、実際には、何のことはない「国道一号線で行きましょう」って向こうが言うんです。しかし、それは壮絶なことをやってました。これ自体が大きなニュースだったんですけど、要するに夜になると落ちた橋のところに木製の船を横に並べて、その上へ板を敷いてトラックが通れるようにしていたんです。昼間は船を全部岸辺につないでありますから、何も無いわけで、そういうことで物資をどんどん運んでいたんです。
我々はジープに乗って結構南の方まで行って何泊かしたと思います。これは肉体的にも大変でした。時々、夜に照明弾を落としてくるんです。だんだん分かってきたんでしょう、橋がないはずなのに輸送してるということが。で、照明弾を落とすと必ず次に爆弾を落としてきますから。横っ跳びに防空壕に飛び込むこともありました。そのこと自体は、良い取材が出来たと思いますけどね。















