石垣島事件のことを市民の体験として手記を残していた人がいた。石垣島出身の二等水兵、前内原武。横浜裁判で死刑の宣告を受けた41人のうちの一人だ。前内原が海軍に志願したのは1945年になってから。19歳で合格したが、戦況が厳しい中、すでに石垣島からは船も出せない状況で、石垣島警備隊に仮入隊。入隊後、ほどなくして事件に関わってしまったー。
◆19歳で事件に遭遇した二等水兵

石垣市市史編集室「市民の戦時・戦後体験記録第二集」に「『石垣島事件』の戦犯となって」という体験談を寄せた人がいた。名前は前内原武。1945年のある日、海軍整備兵に志願し、学科試験を受けて19歳の時に合格したとある。
千葉県の州崎航空隊から入隊通知があったものの、すでに戦況は激しく、石垣島からは船が出ない状態だったので、石垣島警備隊の整備兵として仮入隊し、しばらくは平喜名飛行場の整備などにあたっていた。(なお、事件当時は三等水兵であったと推測されるが、裁判記録では階級は二等水兵になっているので本文では二等水兵を呼称とする)
<「石垣島事件」の戦犯となって 前内原武>石垣市市史編集室「市民の戦時・戦後体験記録 第二集」より
その頃、バンナー岳東麓には海軍の井上部隊が駐屯しており、その近くのバンナー松林の中に第一小隊=田口小隊が駐屯しておりました。私たち海軍志願兵三十数名は、田口小隊の兵舎で先任下士官らによって身体検査が行われ、その結果、鳩間出身の大城英吉(17歳)、小浜正昌(17歳)と私の三名が田口小隊に入隊ということになったのでした。
◆処刑の前日、グラマン機から攻撃

左から三番目、顔が半分写っているのが大城英吉二等水兵(米国立公文書館所蔵)
<「石垣島事件」の戦犯となって 前内原武>
大城、小浜、私の三人は一番年少だったせいか時々、小隊長から銃の撃ち方や機関砲の撃ち方などを教えてもらいました。機関砲はぐるぐる回転して撃つ仕組みになっており、ひとりは弾送者、もうひとりは弾丸を並べる人、あとのひとりは射撃手というように三名が一組になっていたものです。ある日、私たちの小隊が台湾から輸送船で運搬されてきた米を、桟橋沖合いで荷降ろししていた時です。いきなりグラマン七、八機が機関銃を掃射してきたのでめいめい逃げ回ったものの、あっという間に三名が銃弾を受け、ひとりは胸を撃たれ、もうひとりは腹を撃たれ、あとのひとりは頭を撃たれて死亡したことがありました。あの時、沖合いにいた輸送船もたてつづけに弾丸を浴びせられ、火災をおこして沈没しました。
◆墜落した米軍機 3人の米兵が捕虜に

<「石垣島事件」の戦犯となって 前内原武>
その翌日の昭和二十年四月十五日のことです。その日も私たちの田口第一小隊は、陣地構築の作業をしていましたが、アメリカの戦闘機一機が日本軍の地上砲火を受け大浜の海岸沖合いに墜落したようで、まっ黒い煙が空いっぱいに上がっているのが見えました。しばらくして、海岸部隊の前島中尉らによって、米軍飛行士三名は捕虜として逮捕され、井上部隊の警備隊本部へ連れて来られたようでした。
手記で前内原は、「連れてこられた米軍飛行士は2,3日壕の中に入れられていた」と書いているが、横浜裁判の記録では、処刑されたのはその日の夜になっている。