「百万本のバラ」などで知られる歌手、加藤登紀子さんが、先日RSKを訪れました。
戦争を経験し、平和への願いを込めて60年間歌い続けてきた加藤さんですが、その一方でハンセン病の回復者にも想いを寄せていました。
亡き夫、藤本敏夫さんが若いころにかかわったある施設の存在が加藤さんとハンセン病回復者を結びつけています。
1960年代 学生たちが中心になって建設した「交流の家」
(加藤登紀子さん)
「私の夫の藤本敏夫が鶴見俊輔さんのゼミ生なんですよ。ちょうど大学に入った頃に『交流(むすび)の家』の建設が始まったと思うんです」

学生運動が激しさを増した1960年代、そのリーダーとして名を馳せたのが藤本敏夫さんでした。加藤登紀子さんとは、1972年に獄中結婚し、出所後は、農業に力を注ぐなどして、2002年に亡くなりました。藤本さんが学生時代に建設したのが奈良市大倭町にいまも建つ「交流(むすび)の家」です。
ハンセン病に対する差別が根強くあった1960年代。藤本さんは奉仕活動に取り組む学生団体「FIWC」の一人としてハンセン病回復者が安心して宿泊できる施設をと「交流の家」を作ったのです。

(加藤登紀子さん)
「みんなでブロックを積んで、手作りでその『交流の家』っていうのを作り始めたらしいですよ。その人たちが藤本敏夫にとっては一番尊敬に値する先輩。その後もそのまま『紫陽花邑』という、ある種の生活コミュニティを一緒に集落の人と営んでいけるような農業共同体のようなものを作って、それが藤本敏夫にとっての一番の理想の、もしかしたら自分たちができるかもしれない未来像として大事にしていたんです」

「藤本敏夫は東京に行って学生運動のリーダーになってしまったんだけど、ずっと心の拠り所がFIWCだった。私は本当にこのご縁が大事なものだったと改めて思います」