パラリンピックの地位向上に貢献

キーワードは、みのさんの自著のタイトルにもなっている「義理と人情」だった。

みのさんの真骨頂が発揮された1つが、パラリンピックを徹底的に応援したことだ。当時、障害者のスポーツは、福祉という視点でとらえられていた。そのため、オリンピックが文部科学省所管であるのに、パラリンピックは厚生労働省が所管し、メダルの報奨金も3分の1ほどだった。練習や移動の際に、自己負担を余儀なくされ、選手たちは苦境に立っていた。

象徴的だったのが、ある大手スポーツ用品メーカーが、オリンピックの選手にはユニホームを無償提供したのに、パラリンピックの選手には有料で提供したことだった。これを聞いたみのさんは「おかしいと思いませんか」と放送で繰り返した。

ほどなく無償提供となり、選手たちは喜んだが、みのさんがその後も同じ話を放送で繰り返すものだから、その会社が「もう勘弁してください」と泣きついてきたのを覚えている。

2010年のバンクーバーパラリンピックのあと、カナダ大使館で開かれた選手の慰労会の光景は忘れられない。選手たちから、みのさんへの感謝の言葉と拍手が鳴りやまなかったのだ。さらに、みのさんは当時の民主党政権幹部に直談判、パラリンピックの報奨金はアップされ、その後、所管も文部科学省に変更された。

2012年のロンドンオリンピックの取材に行った際には、みのさんとともに、パラリンピック発祥の地であるロンドン郊外のストーク・マンデビル病院を訪ねた。事故で半身不随になった人たちのリハビリ施設でもあり、患者さんたちは車いす生活でありながら、ものすごく明るく前向きだったのが印象的だった。

こうした番組の姿勢や様々な企画の結果、2010年7月を底に番組の視聴率が上昇を始めたのだ。

東日本大震災では自ら被災地へ

そして2011年3月11日、東日本大震災が起きた。復旧復興がテーマになってきたとき、私たちは「前を向いて歩こう」と題して、被災地応援キャンペーンを展開した。メインは、みのさんが直接、岩手・宮城・福島の被災地を訪ねて、被災者の話を聞き、応援することだった。

「お嬢さんおいくつ?」
「85歳です」
「えー!信じられない。84歳かと思ったよ」

被災者の方たちはみのさんの冗談交じりの話に笑い、そして、泣いた。

2011年6月 宮城県南三陸町で被災者に話を聞く
2012年2月 福島県大熊町 被災地の梨農家を訪ねて

宮城県の震災がれきが県外で受け入れられない問題が上がったときもすごかった。みのさんは「震災がれきは47等分して全国で受け入れるべきじゃないですか」と繰り返した。その結果、実際に全国で受け入れられることになったのだ。

2012年3月、番組の視聴率は月平均で9%に達し、ついに復活を果たした。一度、視聴率が低下した番組が復活することは珍しい。年末に開かれた恒例の全スタッフ、出演者が集まる忘年会で、みのさんはみんなを前に語った。

「“勝利の美酒”っていうでしょ。あれは負けたことがある人にしか飲めないお酒なんです。勝ってばかりいる人には決して飲めないお酒です。きょうは勝利の美酒を味わいましょう。皆さんおめでとうございます!」