今、中国に暮らす日本人は10万7000人あまり。常に対日感情が良好とは言えない中国で、彼らはどんな思いで日本と中国を見ているのでしょうか?
2022年は日中国交正常化50年。JNN北京支局、上海支局の記者が聞いた「私が中国で暮らすわけ」。そして「私が思い描く日中のこれから」。
■“ジョージ・ハリスン役の老師” 中国と無縁だった20代はアメリカにギター留学
上海で暮らして13年になる渡辺良平さん。上海交通大学で日本語を教える唯一の外国人講師として働き、オフにはビートルズのコピーバンドのギタリストとして活動しています。コンサートには学生らも駆けつけ、“ジョージ・ハリスン役の老師(先生)”として、知る人ぞ知る存在です。妻と長女の朝食を作って、学校まで送迎するのが朝のルーティーン。一般に「上海の男性は、食事の準備から家事まで当たり前にこなす」と言われていて、中国暮らしがすっかり板についた渡辺さんですが、これまでの人生について話を伺うと、日本と中国の“近しい距離感”を感じずにはいられませんでした。

20代の頃、渡辺さんは地元・宮城でバンドのギタリストとして活動。インディーズでCDも出していましたが、より本格的にギター演奏を学ぶため、1994年から1年間アメリカのロサンゼルスに留学しました。ロサンゼルスを選んだのは、当時影響を受けていたRatt(ラット)やDokken(ドッケン)などの“LAメタル”(=LAで始動したヘビーメタルバンドの音楽)の本場だから。「日常にハードロックのある国へ行ってみたかった」と意気込んで赴くも、いざ現地で学び始めると、良くも悪くも自分の演奏レベルを客観的に知ることに。帰国後も音楽で結果を出すことは出来ませんでした。音楽に区切りをつけ一般企業に就職すると、2001年から取引の関係で中国・上海へ定期的に出張するようになります。
■結婚、そして上海へ移住 居間では「抗日神劇」 街では「反日デモ」 それでも冷静でいられた理由
仕事で中国と関わる生活が5年ほど続き、ある中国人女性と知り合います。
「取引先の方から『渡辺さん彼女いないの?いい人紹介するよ』『ぜひお願いします』と何気ない会話を交わしたら、本当に紹介してくれて。それが2006年の夏。その年の国慶節(10月1日)には日本の家族に紹介して。僕も35歳だったので、強引にいかないとなと思って、すぐ結婚しようとなりました(笑)」
結婚後はしばらく夫婦そろって日本で暮らしますが、まもなくリーマンショックの影響で、勤めていた会社の業績が急激に悪化。仕事への不安もあり、今後の身の振り方を家族と相談する中、中国の義父母も交えた“日中家族会議”が開かれるようになりました。そこで義父母から何気なく出た言葉が、人生のターニングポイントとなります。
「上海に来る?」
渡辺さんは2009年、会社を辞めて中国へ渡ることを決めました。それから13年、上海で妻と子、そして妻の両親と同居しています。国家間では何かとぎくしゃくすることの多い日中関係ですが“日中家族”は至って平穏だといいます。ただ、居間でテレビを見ていると「抗日神劇」と呼ばれる日中戦争を題材にしたドラマが放映されていることも…気まずさを覚えることもあるといいますが、義母は「今の日本兵のセリフ、正しい日本語?」とさりげなく声をかけて緊張感を解いてくれて、決して政治や歴史問題に踏み込んだりはしないそうです。
上海に移住後、複数の職種を経験し、日本と中国の文化の違いに戸惑うことはあったものの、周囲とは良好な関係を築いてきたといいます。2012年には尖閣諸島の国有化に端を発した「反日デモ」が中国全土で頻発。上海も例外ではありませんでした。中国人の知人らは当時、日本車に乗っていた渡辺さんに対し「デモ隊の攻撃対象になるから乗るのをやめた方がいい」と声をかけるなど、常に気をかけてくれていたといいます。

2012年9月の上海での反日デモ
「反日デモがあった2012年時点で既に3年上海で暮らしていましたし、結構冷静でいられましたね。“反日”な人ばかりでないことは良く分かっていましたし、周囲は心配してくれる人ばかりでしたから」