当時の沖縄の特殊事情

この時期、沖縄は米国および米軍の施政下にありました。
海運業は琉球政府の管轄下にありましたが、本土と比べて船舶の安全基準や管理体制は十分ではありませんでした。

地元漁船や米軍の航空機などが協力して被害者の救出にあたったといいます。

琉球政府は米軍に救助を要請しました。米軍の航空機、ヘリコプター、タグボートなどの対応によって生存者116人が救助されました。そのことは事実です。ただし、本土のように、海上保安庁の巡視船や無線通信網があれば、救助がもっと早くできた可能性があるという指摘が多かったのも一方の事実なのです。

沖縄返還から

みどり丸沈没事故と沖縄返還(1972年)には、直接的な因果関係はありません。
しかし、この事故は「本土と同じような安全基準や救助体制が必要だ」という意識を沖縄の人々に強く植え付けることになりました。

まだ沖縄が「日本ではない」時代でした。助けられた子供たちは今頃70歳をこえています。

沖縄返還から51年、事故から60年が経過した2023年8月17日、久米島町の銭田森林公園にある「みどり丸遭難犠牲者慰霊之碑」前で追悼法要が行われました。
沖縄では、このような悲惨な事故を風化させず、教訓を未来に伝える取り組みが続けられています。