「♪夕焼け小焼けで日が暮れない」。空腹にいじめ…戦時中、疎開先で過酷な集団生活を送っていた子どもたちが歌った替え歌だ。少年飛行兵になるために訓練を受けていた少年は「♪尻の痛みに耐えかねて」と、気絶するまで尻を棒で殴られたという激しい体罰の様子をユーモラスな替え歌にした。くすりと笑いたくなるような替え歌の裏には、当時の子どもたちのいじらしい姿が見え隠れする。

▼今も昔も子どもたちが楽しむ“替え歌”

「♪いま(いま) 別れのとき 飛び立とう 未来信じて」
卒業ソング「旅立ちの日に」。この名曲が、子どもたちにかかると…。

「♪ピーマン(ピーマン)わかめ味のポッキー 飛び納豆 苦いしいたけ」

こんな替え歌に。歌謡曲や人気アニメの主題歌の替え歌も流行っているという。実はこの替え歌、戦時中も子どもたちの間でさかんに歌われていた。

東京・葛飾区立北野小4年の2人が「旅立ちの日に」の替え歌を歌ってくれた

▼「パーマネントはやめましょう」戦時中に歌われた“替え歌”とは 

大阪府に住む外山禎彦(とやまよしひこ)さん(90)。太平洋戦争の初期の頃に歌った「皇軍大捷の歌」という軍歌の替え歌を、はにかみつつも歌ってくれた。

「♪パーマネントに火がついて みるみるうちにはげ頭 はげた頭に毛が三本 あぁ恥ずかしや恥ずかしや パーマネントはやめましょう」

大阪府河内長野市在住 外山禎彦さん(90)

戦時中、「贅沢は敵」とされ、パーマは贅沢で控えるべしという風潮があった。この替え歌は、パーマの女性をからかっているようにも、そうした風潮を揶揄しているようにも聞こえる。この頃はまだ、市民生活にもある程度の余裕があったのかもしれない。

1944年には爆撃機B-29による空襲が本格化。外山さんは、両親や親戚と住んでいた大阪市住吉区を離れ、岸和田市郊外に学童疎開することになった。まだ小学4年生だった。

写真左:外山禎彦さん(当時9歳)疎開直前の1944年夏、大阪市住吉区で撮影

●外山禎彦さん(90)
「親は心配していたけど、子どもたちはむしろ『疎開は面白いぞ』という感じだったですね。それで修学旅行の代わりみたいなつもりで、将棋やかるたを買って行きましたね」

しかし疎開は、外山さんが考えていたようなものではなかった。食料は常に不足していて、喧嘩が絶えない。陰湿ないじめもあった。過酷な集団生活に耐えかねて、脱走する子どももいた。

●外山禎彦さん(90)
「食べ物をくちゃくちゃ言わせながら食べるとか、あいつは食べ物を、皿の底まで良くすくって食べるとかね。友達同士の軋轢が厳しかったですね」

そんな中、外山さんは軍歌を歌って自らを奮い立たせたと言う。当時のメモ帳には外山さんが書き写した軍歌の歌詞が、びっしりと書き込まれていた。

国民学校で教わった軍歌の歌詞を書き写したメモ帳

▼過酷な疎開先で歌われた“不謹慎”な替え歌

しかし軍歌をいくら歌っても、苦しい疎開生活はいつまでたっても終わらない。そこでひっそりと歌われ始めたのが、「替え歌」だ。それは「パーマネントをやめましょう」とはニュアンスの異なるものだった。「♪見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば」という歌詞で始まる勇ましい軍歌「愛国行進曲」が次のような歌詞に。