「津波はむごいことをする」被災地で重ね合わせた未来の高知の姿
友永さんは生まれも育ちも黒潮町。高校卒業後に入った地元の役場で、2003年度から8年間、防災業務を担当していた。その最後の年、2011年3月11日に東日本大震災が起きる。
友永さんは地元の鰹漁師たちの家族の安否確認をするため、震災直後、被災地に入った。そして避難所などをまわっては毎日活動報告を書き留め、役場や県庁、地元紙などに送っていた。一瞬にして町をのみ込んだ津波の惨状を目の当たりにした友永さん、その活動報告には、友永さんが受けた衝撃が克明に記されている。

~友永さんの活動報告から抜粋~
【3月20日】
「ここの被害はひどすぎる。津波はむごいことをする。でもこれが近い将来の高知県の姿であることは間違いありません。あまり時間があるとはいえません。このことを多くの県民が知るべきです」
【3月21日】
「午後は陸前高田市まで行ってきました。見渡す限り全てが破壊され、消え去っています。自然の恵みを受け、自然とともに暮らしてきた方たちに何の罪があるのか?」
友永さんは当時をこう振り返る。
■友永公生さん
「8年間防災担当としていろいろな被災地に行ったりもしましたが、あの惨状を目の当たりにして本当に自分の認識が甘かったと思い知らされました。自然の偉大さ、その前に人間は無力だと。人間の営みがこうも失われていくものなのか、と想像を超えていました」
その震災の翌年に突き付けられた「34.4m」。南海トラフ巨大地震の津波想定で、「日本で最も高い津波が来る町」とされ、住民の間には「逃げても仕方がない」「暮らし続けられない」といった声がこぼれ始め、町を離れた人もいたという。
しかし、黒潮町は34mに立ち向かうため奮起する。
「犠牲者ゼロ」を掲げ、当時の役場職員200人全員を各地域の防災担当に割り振り、全職員一丸となって「あきらめない」防災対策を進めた。
更に避難に関する現状や課題を世帯ごとに「カルテ」として作成。住民も次第に防災を「自分ごと」として捉えるようになり、「逃げる」「自分たちで命を守る」という意識が根付いていった。


様々な想定で行われる避難訓練は住民にとって「日常的なもの」に。

そしてハード面では、避難道の整備や津波避難タワー設置などに着手。津波想定発表から6年後の2018年には役場庁舎の高台移転を完了させた。
「絶望」は、いつしか「希望」へと変わっていく。缶詰製作所は、その希望を背負って設立された。友永さんは役場時代とはまた違った形で「まちの防災」を担うこととなった。
そんな友永さんが考える防災とは。