太平洋戦争末期、墜落した米軍機搭乗員の処刑に立ち会い、上官の命令で杭に縛られた米兵を銃剣で刺してBC級戦犯に問われた成迫忠邦上等兵曹。1950年4月7日に26歳で死刑執行された成迫は、学徒出陣が始まった1943年に満20歳となり、志願して海軍に入った。大学に通えたのは、わずか1年。しかし母に宛てた遺書に書かれていたのは、学問をさせてくれた感謝だったー。

◆20歳で学徒兵として海軍へ

BC級戦犯として死刑になった成迫忠邦(米国立公文書館所蔵)

BC級戦犯を裁いた横浜裁判の資料の中には、米軍が作成した再審査資料があり、被告人の情報が集約されている。石垣島事件の資料の日付は1949年1月13日。41人に死刑が宣告されてから10ヶ月後だ。成迫忠邦の欄には次のような表記がある。

成迫忠邦 25歳
住所 大分県南海部郡木立村
親族 母、兄弟、三人の姉妹
学歴 佐伯中学校卒、日本大学に1年通学
職業 農業


そして成迫の軍歴には、

1943年12月 海軍に入り、佐世保海兵団に入団

とある。つまり成迫は学徒出陣で、年齢から推測すると1943年に満20歳を迎えている。成迫を直接知る同郷の武田剛(こう)さんの文には、「海軍を志願した」と書いてある。

◆陸軍大臣から文部大臣への照会文書

「在学徴集延期臨時特例(勅令)に関する件」(国立公文書館所蔵)

国立公文書館には学徒出陣に関する文書が収蔵されている。タイトルは「在学徴集延期臨時特例(勅令)に関する件」で、陸軍大臣から文部大臣への照会文書だ。公文書館の解説によると、

『1943年(昭和18)9月、「現情勢下に於ける国政運営要綱」(閣議決定)によって、学生・生徒の卒業までの徴兵猶予を停止することとされ、同年10月2日、在学徴集延期臨時特例(勅令第755号)が公布されました。大学・高等専門学校の満20歳に達した学生・生徒は徴集されることとなり、10月21日には明治神宮外苑競技場で文部省主催の出陣学徒壮行会が行われました。なお、陸軍省により入営延期を行う理工医系・教員養成系学校学部等が指定されています。』
(国立公文書館HPより)

文部省の出陣学徒壮行会のあと、さらに日本大学では11月17日、小石川の後楽園球場で独自の学徒出陣壮行式を執り行っている。成迫も参加したのだろうか。

◆入隊後1年4ヶ月で事件に遭遇した不運

日本大学学徒出陣壮行式(日本大学ヒストリアより)

成迫は、佐世保海兵団のあと、1944年3月から9月、千葉県にあった館山海軍砲術学校で訓練を受けている。房総半島南端の広大な海岸を演習場としたこの施設は、陸上戦闘に関わる砲術や上陸作戦を訓練する機関だった。そして石垣島警備隊に配属されたのは1944年12月。米軍機搭乗員を殺害した石垣島事件が起きたのは翌年4月。そして敗戦。復員したのはその年の12月だった。

20歳の大学生が軍隊に入り、1年ほど訓練を受けて石垣島に着任。4ヶ月後には銃剣による「刺突訓練」で、縛られた生身の米兵を的に上官の命令通り刺した。「刺突訓練」に参加したのは数十人に上る。死刑になった7人のうち、この米兵の「刺突訓練」に関わり、実際に刺したのは、現場を仕切っていた榎本中尉と、最初に刺した藤中松雄一等兵曹、そして2番目に刺した成迫の3人だった。成迫は、たまたまそこに居て、2番目に刺すことになったのだ。それ以降に刺した者は、最初の判決では死刑が宣告されたものの、再審で減刑された。弁護人らの主張どおり、「殺害」ではなく「遺体を突いた」と判断されて減刑されたのだろう。BC級戦犯を裁いた米軍の横浜裁判には判決理由がないので、推察するしかない。