高木慈興さん(94)
「防空壕の隙間から火の粉が入ってね、防空壕は乾燥してますから一挙に火がついちゃうんだよ。それで11人全滅した。遺体の運び出しに立ち会ったんですけどね、気の毒でした。母親が赤ちゃんを抱いてる。母親の割烹着のレースの襟が、赤ちゃんの肌にくっついているんです。なぶり殺しみたいなものですよね。防空壕に入っている人にとっては」

岐阜空襲は約2時間続き、900人が死亡した。市内にある家の半分が燃え、約10万人が住む家を失った。

高木慈興さん(94)
「南の方と、西の方は火の幕でしたね。全部丸焦げですから。『おーい梯子、おーいバケツ、はよ持ってこい』そういう叫び声がずっと聞こえていました。こっちはぼーっとしていて、そんな(消火する)気もわかない状態でしたね。何見ても呆然としますよ。今まであったものがなくなる。そういうのを受け入れるだけで精一杯で」

むごたらしい空襲の記憶は、高木さんの胸に、深く、深く、刻まれた。

空襲直後の岐阜市 岐阜空襲を記録する会提供

父は帰らず「何度も夢に出てきた」復讐誓い迎えた花火大会

岐阜空襲の翌月、戦争が終わった。しかし、高木さんにとっての戦争は終わらなかった。フィリピンに出征した父が、帰って来なかったのだ。

高木慈興さんの父・慈雲さん

高木慈興さん(94)
「うちが戦争終わったっていうのは、うちの親父が帰ってきたときが戦争終わったときですね。で、帰ってこないわけでしょ」

慈雲さんは、高木さんにとって、ただの優しい父親ではなかった。いつかは寺を継ぎ住職となる高木さんを、慈雲さんは時に厳しく指導した。そんな慈雲さんを尊敬し心から慕っていたという高木さん。夢に何度も出てきたという。

高木慈興さんの日記
「10月5日:昨日朝、お父さんの夢を見た。軍刀もなしで軍帽軍服で両手に小さな包みを下げて、ニコニコしながらこちらへ来た。あれ!もう帰れたのかなーと思った」
「12月31日:耐へ難きを耐へ 忍び難きを忍びと、仰せられたとき、ひそかに復讐を誓った。この年を忘れるな。そして復讐を忘れるな」

高木慈興さん(94)
「新しい世界に飛び込めなかったです。いつまでも戦争を引きずって生きとったような気がします」

立ち止まったまま、復讐心すら抱えていた高木さんを後目に、花火大会の開催が決まった。大会のテーマは「復興・岐阜」。多くの人が、割り切れない思いでいたのではないかと言う。

高木慈興さん(94)
「花火を楽しむ気持ちの人と、そんな暮らしをやって戦地の兵隊さんに申し訳ないじゃないかという気持ちの人と、分かれていたと思いますよ」

高木さんがつけていた日記

「空襲を思い出した」花火大会…人々の気持ちを変えた花火師の思い

そんな中で迎えた花火大会当日。花火が打ちあがると、思いがけず、恐ろしい記憶が蘇ってきたと言う。空襲の記憶だった。