高木慈興さん(94)
「焼夷弾が落ちるときにね、落ちてぱっと開く、申し訳ないけど花火によく似た風景があってね。ヒューっていって、パパンっていうのがね、すごく焼夷弾の落ちる音に似ています。怖いぐらい」
高木さんは花火を見て、あの空襲を思い出した。それでも夜空を見上げ続けていると、焼夷弾の色とは違う、青や緑の美しい花火が次々と打ちあがる。高木さんの気持ちは、徐々に変わっていったという。
高木慈興さん(94)
「こんな素晴らしいものがこの世にあるのかと思ったんです。ずっと見ておきたいと思いました。同列にはならんですな。戦争と…あんなもんと一緒にしてもらっちゃ困るな。火薬が鉄砲の弾になったり、ミサイルになったりするなんてもってのほかで、こんな素晴らしい花火が、戦争さえなければどこでも見られるんですよね」
それから高木さんは、次の年も、また次の年も、長良川の花火を見続けた。花火を楽しめること、平和であることをかみしめながら。「復讐を誓った」軍国少年の面影は薄れていった。
今でも長良川の花火大会の日には、毎年、家族が集まる。去年は91歳離れたひ孫と一緒に見た。

岐阜市の「村瀬煙火」は、79年前、戦後最初の花火大会でも花火をあげた。四代目の功さんはいま、今年の長良川の花火に向け準備を進めている。
3年前まで功さんは厳しい試練の中にいた。コロナで花火大会が次々と中止となったのだ。それを乗り越えて打ち上げた花火は格別だったという。そのときの気持ちと、戦後初めての花火を打ち上げた花火師たちの気持ちは似ていたのではないか。
村瀬功さん
「地域の方を喜ばせるために花火を作っていたと思う。戦争のときはできなくて、戦後すぐにできるようになって、いろんな方に喜んでもらえた。当時の人の恐怖体験が、いいものに、綺麗なものに変わったっていうのが、すごく嬉しかったんじゃないのかな。ようやく戦争が終わったっていうのがあったんじゃないかな」

ウクライナ、パレスチナ・・・世界各地で戦争状態が続くなか、戦後80年の夏も、長良川では平和を願う花火が打ち上がる。

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※この記事は、JNN/TBSとYahoo!ニュースによる戦後80年プロジェクト「#きおくをつなごう」の共同連携企画です。記事で紹介した岐阜・長良川での戦後最初の花火大会の映像に映る人たちの情報など、戦中・戦後の花火について心当たりのある方は「戦後80年 #きおくをつなごう」サイト内の情報募集フォームにご連絡ください。
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