記憶を補完しながら伝える「家族の物語」

当時3歳だった竹本さんにあの日の記憶は、断片的なものしかありません。
逃げる途中に橋が炎に包まれていく様子、水を求めていたのか左手を挙げて何かを訴えかけている女性…。
明確に記憶しているのは、これらの場面だけです。初めての証言を終えた後、竹本さんは、記憶を補完するため、広島市内に住む5つ上の姉・幸枝さんに、当時の状況を聞くようになりました。
「それまでお互い原爆の話はしてこなかった。でも姉に聞くと、堰を切ったように話してくれた。涙を流しながらね」
「お互い年寄りだし、会っておこうね」と時間を見つけては幸枝さんに会いにいっています。そして、あの日のことを知り、伝えるために、姉から聞いた話と自身の断片的な記憶を結びつけ、証言をしています。

2024年7月に東広島市であった原爆展に竹本さんの姿がありました。この場所は、初めて被爆証言した場所です。この日、竹本さんは10歳離れた姉の君江さんの話をしました。
当時13歳だった君江さんは、建物疎開作業中に被爆。その後の足取りが分からなかったといいます。原爆投下から20日以上たったある日、「似島に収容されている」と情報が入りました。
広島市沖に浮かぶ似島には、陸軍の検疫所があったため、原爆投下直後から次々と被爆者が運ばれて行きました。その数は、1万人ともいわれています。竹本さんの両親が似島へ行き、収容所で君江さんを探しているときでした。
「突然、向こうから『お父ちゃん、お母ちゃん』って声が聞こえたんですって。それが姉だったんです。だから、待っとったんでしょうね。親をね」
家族と再会を果たした君江さんでしたが、その翌日の8月30日に息を引き取りました。まだ13歳でした。
当時3歳だった竹本さんに、君江さんの記憶はありません。写真も残っていないため、君江さんを感じられるものも、ありません。それでも、君江さんの存在を忘れたことはありません。
「日本の終戦は8月15日ですが、私はそうは思いません。うちでは、終戦は8月30日。これはずっと言っている。終戦は8月30日だと」