小学校に入学すると「ピカドン」と呼ばれ

竹本さんは7歳の時、父親の仕事の都合で北九州に引っ越しました。
「小学校に入ったときは、『ピカドン、ピカドン』と言われました。あだ名でね。だけど、いじめられた記憶もない。今思えば、それがいじめだったのかもしれないが、当時はどうもなかったですよ」
ただ、左頬の傷跡は、ケロイドのように盛り上がっていたといいます。
「傷跡が醜くてね。19歳の時に外科で削ってもらいました。ジキッジキッという音をいまでも覚えています」
中学を卒業後、理髪店で修行を積んだ竹本さんは、広島に戻り、1968年、26歳のときに呉市で自分の店を構えました。

それから四半世紀ほどがたち、被爆2か月を記録したフィルムが見つかりました。被爆50年となる1995年をはさんで、当時3歳だった竹本さんの姿も幾度となくテレビなどで流れました。
竹本さんは、自分が映った古いフィルムを持っていました。義理の兄が偶然観た映画の中で、弟たちの姿を見つけたそうです。上映後に映写室で事情を説明し、フィルムを切り取ってもらったといいます。

「映像の男の子」が自分であることは、ごく親しい友人にしか伝えませんでした。そして、他の人に広めることは、許しませんでした。
「差別を受けるとか、そういうことは思ったことはない。ただ、被爆体験を話しても理解してもらえないという思いが、どこかにあったんでしょうね」
また、日々の理容院の仕事も忙しく、ほかのことを考える余裕もなかったといいます。
半世紀ほど営んだ理容店を閉めしばらくたった2022年。竹本さんの気持ちに変化が起こりました。きっかけは、友人からのこんな依頼でした。
「被爆77年に併せて開催する原爆展で”おんぶの兄弟”の写真を展示させてほしい」
友人からの依頼を了承し、その原爆展で初めて自身の体験を話しました。
「証言した日の帰り道に、呪縛がとけたように感じましたね。『いつかは名乗り出なくてはいけない』。その思いが、心の底にはあったんでしょうね」