2025年最初のスポーツ日本一が決まるニューイヤー駅伝 in ぐんま(第69回全日本実業団対抗駅伝競走大会。1月1日に群馬県庁発着の7区間100kmで実施)にマラソン日本歴代1~3位選手が揃う。

2時間04分56秒の日本記録を持つ鈴木健吾(29、富士通)、2時間05分12秒の池田耀平(26、Kao)、そして2時間05分16秒の吉田祐也(27、GMOインターネットグループ)の3人だ。これは2003年大会に高岡寿成、藤田敦史、犬伏孝行と、当時の歴代1~3位選手が出場して以来、ニューイヤー駅伝では22年ぶりのことになる。

1、2、3、5区への出場が予想される3人の走りが、各チームの順位に大きく影響する。そしてニューイヤー駅伝の先には、来年の東京世界陸上も見据えている。

◇ニューイヤー駅伝の区間と距離、中継所
1区 12.3km 群馬県庁~高崎市役所
2区 21.9km高崎市役所~伊勢崎市役所
3区 15.3km 伊勢崎市役所~三菱電機群馬工場
4区 7.6km三菱電機群馬工場~太田市役所
5区 15.9km 太田市役所~桐生市役所
6区 11.4km 桐生市役所~伊勢崎市西久保町
7区 15.6km 伊勢崎市西久保町~群馬県庁

吉田が東京世界陸上代表選考で一歩リード

2024年、男子マラソンの日本歴代2位と3位の記録が誕生した。記憶に新しいのは、12月の福岡国際マラソンに2時間05分16秒で優勝した吉田である。


中間点の通過は1時間02分58秒と、予定よりも20秒以上遅かったが吉田は落ち着いていた。「設定より遅かった分、余力を持てているとポジティブに考えていました」。古賀淳紫(28、安川電機)、ビダン・カロキ(34、トヨタ自動車)、そして27km過ぎに西山雄介(30、トヨタ自動車)が離れ始めた。30kmでペースメーカーが外れ、吉田とタデッセ・ゲタホン(26、イスラエル)の一騎打ちの展開に。そして31.6kmの折り返しを過ぎると吉田がリードを奪い始めた。

「中間点通過が予定より遅かったですから、記録は考えませんでした。それでも2倍にしたら2時間6分で、世界陸上の参加標準記録(2時間06分30秒)は出すことができる。自分のリズムを維持することだけを意識しました」

それが功を奏した。吉田は後半を1時間02分18秒と、日本選手の2時間6分未満のレース中最高タイムで走破。後半の強さを発揮することで日本歴代3位のタイムを叩き出した。

世界陸上参加標準記録突破者は吉田が3人目。今年2月の大阪マラソンの平林清澄(22、國學院大)が2時間06分18秒、9月のベルリン・マラソンの池田が2時間05分12秒を出している。だが代表選考という点では福岡国際マラソンと、同日の防府マラソンから始まる代表選考競技会の標準記録突破者が、選考競技会以外の突破者よりも優先される。

今後の標準記録突破者数次第ではあるが、青学大OB初の五輪&世界陸上代表に吉田が大きく近づいた。

日本選手過去最速ペースにも挑戦するつもりだった池田

池田は高速レースとして知られる9月のベルリン・マラソンに出場。2時間05分12秒の6位という成績だったが、後半で順位を大きく上げている点が高く評価できた。中間点通過が設定より遅かったが、福岡の吉田と同様に落ち着いて対処した結果だった。

「監督(元日本記録保持者の高岡寿成監督)からも外国のレースは、ペースメーカーが安定しないかもしれない、とアドバイスがありました。最初の5kmに15分(15分02秒)かかったことでイライラしていた選手もいましたし、ペースが上がったとき(20kmまでの5kmは14分28秒)や、給水でスピードに変化が生じたときは集団の後ろに位置して、多少差ができても自分のリズムで走ることを心がけました」

池田は中間点を1時間00分57秒で通過した第1集団ではなく、1時間02分25秒の第2集団でレースを進めた。20人近くが先頭集団で走っていたが、全員が最後までそのペースで行けるわけではない。池田は「落ちてくる選手もいる。第2集団のトップを取る戦い方」に徹した。中間点では23番目を走っていたが、30kmでは18位、35kmでは13位、40kmでは7位と順位を上げ、最後の2.195kmでは40km地点で50秒前にいた選手を逆転した。

ベルリンに同行した入船敏コーチによれば、主催者が設定した第2集団の中間点通過は1時間01分45秒だった。このタイムで前半を走った日本選手は、途中棄権したケースを除けば過去にいない。実際には1時間02分25秒と設定より遅くなったことで、「池田が余裕を持つことができた」と入船コーチ。「まだまだ行ける余地がある、ということです。次は今回の経験を生かした日本記録を狙うレースができると思います」

しかし1時間01分45秒の中間点通過をした場合も、池田にとって一か八か、という走り方ではなかった。池田自身はレース前に日本記録も意識していたが、高岡監督からは「日本記録への挑戦も応援するが、昨年のアジア大会の失敗(6位・2時間15分04秒)やケガでMGC出られなかった経験を踏まえて、まとめる走りを欲しい」と言われていたのだ。国際レースで一度、次につながる結果を残すことが重要だった。

池田は第2集団で走った中では2番目でフィニッシュした。2時間04分35秒の5位だったハイレマリアム・キロス(27、エチオピア)には先行された。池田が初マラソンだった大阪(23年2月。7位・2時間06分53秒)で優勝した選手である。

「35kmまではキロス選手とも一緒に走っていましたし、日本記録の35km通過も上回っていました」と池田。終盤の強さがあれば日本記録を更新できていた。そのために「駅伝を入れつつスピードを強化していきたい」と話す。

池田はトラックだけ、マラソンだけと考えず、走力全体をアップさせる成長の仕方を見せてきた。それが現れているのがニューイヤー駅伝で、2年前に当時の最長区間の4区で区間賞、前回も最長区間になった2区で区間2位。25年の元旦も走力アップした池田が見られそうだ。