「放送人の会」が記録した放送界に携わった偉大な先人たちのインタビュー集から、今回は昼のメロドラマの生みの親であり、独特のクロ-ズアップ手法で知られたプロデューサー、演出家である岡田太郎氏のインタビューをお届けする。聞き手はTBS・OBで放送人の会の大山勝美氏(故人)。

放送とのかかわりは突然に

岡田 僕は本当は公務員だったのです。「だった」というか、総理府の国立世論調査所という所にいました。それが当時、吉田内閣か何かで、内閣がだんだん悪口を言われるようになった。その流れで、政府が国立でそんな世論調査をやっているのはくだらん、新聞社にまかせておけばいいということで、おとりつぶしになったのです。

その組織は厚生省や外務省から来ている人が寄り集まって作った一種の研究所みたいなものですから、僕は帰る所がないわけです。それで「お前、どうする?どこかへ紹介しようか」ということになりました。

その頃僕は、色々な調査で全国を歩いていましたけど、ラジオが全盛期で、大変面白いというので、ラジオの仕事をどこか紹介してもらえないかと頼みました。それこそNHKをはじめ、みんなに聞いてもらったら、ラジオに行く人は当時は大エリートで、途中からなんて行かれないよというので諦めたのです。そうしたら、たまたま文化放送※で動きがあって…

※文化放送 首都圏2番目の民放ラジオとして1952(昭27)年3月末に開局

大山 何年ですか。

岡田 昭和29年(1954年)です。当時のラジオは夜11時で放送を終えていたのを、その年の7月から初めて夜中の2時まで深夜放送をやってみようということで、公にやりますと宣言してしまったのです。

ところが組合が反対して、やる人がいなくなってしまった。そこで急ごしらえで、今で言えばディスクジョッキーですね。要するにレコードを回して自分でしゃべる。自分で原稿を書いてしゃべって、ニュースなども読む。そういう人を5人採ったのです。契約で採った。その中に僕が入って、深夜放送の発声の第一号を僕がやったのです。

ところが、さすがに下手なものだから、3か月でクビになってしまった。そうしたら有坂愛彦さん※という音楽評論家が当時の文化放送で音楽部長をやっていて、その人に「かわいそうだから、残りたい人はちゃんと雇う、やる仕事がないでもない、畑が全然違うけれどいいか」と言われて、いいですと。何でもいいから、1回もぐり込んだらやってしまえと。

※有坂愛彦(ありさか・よしひこ<1905~86>)音楽評論家

言われた仕事は放送指揮といって、指揮者の「指揮」です。放送指揮室というものがあって、要するに生放送があったり、レコードがあったり、テープがあったりというのを、時間通りにきちんと出す係なんです。言ってみれば送り出しです。そこでどうだと言うから、何でもいいから、とにかくお願いしますと。そこにずっといたのです。

送り出しの専門家で、僕も当時としては若くて多少優秀だったのかなと思うんだけれども、すぐに評価されて、3年もやればかなりベテランになって、そこのチーフか何かをやっていました。