繰り返された「問題先送り」

「調査報告書」でまず目を引いたのは、経営陣が1991年に「隠ぺいを決めた」経緯だった。とくに法人向けに強かった山一は、「営業特金」と呼ばれる手法で利回りを保証して企業から資金を集めた。しかし、株価下落で含み損が拡大し、「約2600億円」という「簿外債務」を発生させた。

では経営陣がどうやって「簿外債務」隠し続けたのか、報告書はその核心に迫っていた。

経営破たんの原因につながったのは、いわゆる「にぎり」「飛ばし」という手法だった。
「にぎり」とは大口の顧客にあらかじめ、一定の「利回りを保証」をするものだ。株価が上がり続ける限りは、双方に利益をもたらすが、株価が下落しはじめると、顧客の株式は多額の「含み損」を抱えることになる。

そこで使われたのが「飛ばし」である。
決算期前に含み損を抱えた「A企業」が、損失を表面化させないよう、決算期の異なる「B企業」に簿価(購入時の価格)で一時的に引き取ってもらい、「A企業」の決算期を過ぎたところで、利息分を加えて再び「企業」から買い戻す取引のことだ。

「飛ばし」によって一時的に損失を抱えてもらうことは、「一時疎開」とも呼ばれた。もちろんこれは、投資家や株主の目をごまかしているわけで、違法な「粉飾決算」にあたる。

山一はこれを繰り返していたが「飛ばし」にも限界があり、最終的には自社グループで引き取らざるを得なくなる。結果的に「2,600億円」もの「簿外債務」を、国内の「ペーパーカンパニー」や「海外子会社」に移し替えていた。もちろん、決算書のどこを見ても出てこない。

「調査報告書」によると、山一首脳陣が「損失隠し」いわゆる「飛ばし」をすることをオーソライズする場となったのが、1991年に行われた2回の秘密会議だった

1回目は1991年8月24日の土曜日。東京・赤坂の「ホテルニューオータニ」ビジネス棟の5階の小部屋に、人目を避けるように会長の行平次雄、社長の三木淳夫ら9人の役員が集まった。担当役員がホワイトボードに資料を貼り付け、「含み損」の実態を報告した。

役員「含み損が約5000億円に膨らんでいる。客は全部引き取ってくれと言っています」

行平「全部引き取ったら、会社がつぶれてしまうだろ。なるべく相手に引き取らせろ」

全員が息を飲んだ。この場で確認されたことは、顧客企業が抱えている「含み損」を「飛ばし」で対処することだった。しかし、山一は「飛ばし」の引き受け手には利息を払うが、株価は暴落しており、引き受け手を探す交渉も難航した。

2回目は11月24日の日曜日。東京・高輪の「ホテルパシフィック東京」の一室。
「損失隠しのスキーム」を主導し、行平の腹心と言われた「B副社長」ら8人が行平を囲んだ。年明けから、新たな法律により顧客への「損失補てん」が禁止されるため、対応が急務だった。

最終的に引き取り手が見つからずに残ったのが、「東急百貨店」など7社が抱えていた「1,200億円」の「含み損」のある「有価証券」だった。
そこで仕方なく、「含み損」を山一の「ペーパーカンパニー」で引き取るという処理案が承認されたのである。
当然、山一の決算書には出てこないため「粉飾決算」である。つまり、「含み損」を隠ぺいする方針が決まった瞬間である。

1991年11月24日、山一首脳が「飛ばし」を決めた秘密会議が行われたホテル(東京・高輪)

東京地検特捜部の調べなどによると、経営企画室のある社員は、秘密会議のあとに「B副社長」からこう命じられたという。

「うちの会社に『飛ばしの受け皿』となるような会社はないか。評価損を抱えた厄介な有価証券があって、相手企業の勘定から山一の勘定に移したい」

つまり「顧客企業が抱えている損失を、山一側に飛ばして、抱えておけるような会社を見つけてくれ」との指示であった。

この社員は特捜部にこう告白した。

「系列のノンバンクを提案しました。すでに山一はそのノンバンクに『不良債権』を移して『缶詰』にしていました。山一本社との関係をなるべく切り離して、監査が入らないようにしました」

「不良債権」の「缶詰」というのは、不良債権を子会社に移し替えて、山一本体の決算書をきれいに見せ、監査法人や株主の追及をかわすためである。そのためB副社長らは次々に「ペーパーカンパニー」を設立、損失が表面化しないように、それぞれの会社の決算期を3月、11月、10月などに割り振った。

「ペーパーカンパニー」を分散した理由はもう一つあった。

「評価損を一か所に集中すると目立つので、ペーパーカンパニーを分散した。からくりは、一つの会社の負債総額が『200億円未満』であれば、会計監査の対象にならない。そのために損失を小分けした。受け皿会社で簿外を引き受けると決めたときから、いつか、こういうこと(経営破たん)が起きるとは思っていた」(山一社員 当時)

実は11月24日の2回目の「ホテルパシフィック東京」の秘密会議、出席者から疑問の声が上がっていたことがわかった。
8人の幹部のうち、経理畑が長かったA役員が、粉飾決算の疑いを懸念してこう発言したのだ。

A役員「会計上問題があるので、公認会計士に聞いたほうがいいのでは」

しかし、この発言はB副社長によって封じ込められた。

B副社長「聞かなくてよい。ノーと言われたらうちがつぶれることになる」

最終的に行平社長も「この方法しなかない」と決断したとされる。

東京地検特捜部は、この「B副社長」こそがキーマンと見ていた。当時社長だった「山一のドン」行平体制のなかで、権力の中枢にあった事業法人部門を担当し、部下に「飛ばし」や「簿外債務」のスキームをつくらせるなど隠ぺいの実行部隊を主導していたのだ。しかし、「B副社長」はすでに死亡しており、特捜部が事情聴取をすることはできなかった。

山一証券の生死を分ける「分岐点」はどこだったのか。国広は、「飛ばし」を決めた1991年の2回の秘密会議ではないかと振り返る。

「多分このまま損失を持ち続けていたら、いつか『神風が吹いて』株価が回復して、どうにかなるだろうと思っていたのではないか。けれども現実を直視したくない、今さら手をつけることもできないと。

一つ大きかったのは1回目の会議のあとの1991年9月、証券スキャンダルで参議院の証人喚問に呼ばれた行平会長(当時)が『これ以上の問題のある取引はありません』と証言してしまったこと。

この『行平証言』によって、今さら『簿外債務』について公表できなくなった。重たいものを抱えることになったが、打つ手がないという状態になった。『先送り』するしかなかった。少なくとも『簿外債務』を楽観視していたとは思いませんが、国会で『これ以上はない』と言った以上、やばいと思っても公表することはできなかった。

ただ、まだこの段階だったら、すべてをさらけ出して、非常に痛みを伴う処理にはなったとは思うが、まだ助かる余地はあったのではないでしょうか。これは、たらればの話ですが」(国広)

調査委員がヒアリングを進める中、実は監督官庁の大蔵省が、山一証券の「飛ばし」や「債務隠し」を知っていたのでないか、あるいは見過ごしていたのではという疑惑が浮上していた。国広たち調査チームは次第に大蔵省の関与についても、調査報告書に盛り込むべきだと考えはじめた。

(つづく)

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
 岩花 光

■参考文献
山一証券「社内調査報告書」社内調査委員会、1998年
国広正「修羅場の経営責任」文藝春秋、2011年
清武英利「しんがり 山一證券最後の12人」講談社、2015年
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、2000年