2022年7月10日。参議院選挙の投開票日に、一人の政治家がこの世を去った。

藤井裕久。90歳。
大蔵官僚から政治家に転身し、官と政の2つの世界を生きた。


「権力闘争は苦手だ」が口癖だった藤井には、小沢一郎の側近、民主党政権の重鎮、若手議員の相談役…様々な顔がある。

あまり知られていない「顔」は「歴史家」としての一面だ。

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」

これも口癖だった。常に歴史に学び、後進たちにも歴史に学ぶ姿勢を説き続けた。
筆者は数年にわたり藤井から、藤井が見た様々な歴史の断片を聞き取っている。
今年は日中国交正常化50年。田中角栄内閣で、二階堂進官房長官秘書官を務めた藤井が明かしたエピソードの一部を紹介する。

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藤井裕久
国交正常化交渉のため、田中角栄総理、大平正芳外相と一緒に訪中した二階堂進官房長官から聞いた話ですけどね、毛沢東が俺のところに来いというので、田中さんが毛沢東のもとを訪ねた。そうしたら、若い女性二人が、大きなうちわで毛沢東を扇いでいるんだと。二階堂さんは、「まるで昔の皇帝みたいだ」と思ったそうだ。

その時には国交正常化の議論はほぼ決着していた。そこで毛沢東が「田中さんね、難しい話はあいつらがやったんだから、楽しい話をしましょう」といってきた。その時、隣で周恩来は直立不動だったって。そのくらい毛沢東と周恩来の間に差があったことがわかったというんですね。


そこで田中さんがね、「日本には民主主義ってのがあって、俺はヘリコプターで日本中遊説して歩き回っているんだ」って言ったら毛沢東は「そんな馬鹿なことは止めなさい、人民は怖いですよ」と言ったっていうんですよ。要するに毛沢東にすればね、やっぱり人民は怖いんですよ、力で抑えてないと。

その次に、毛沢東から「ところでこうやって日中が仲良くなったんだから、隣のソ連ってのは悪い国だから一緒にやっつけませんか」と持ち掛けられたんだって。

田中さんはびっくりして「日本には平和憲法ってのがあります」って。あの人は意外とそういうところあるんだよね。福田赳夫さんだったら半分くらい乗ったかもしれないけどね。毛沢東をめぐる話ではこの2つ、二階堂さんが僕にしてくれた。


当時、国交正常化を主導した田中、大平を殺せっていう世論はずいぶんありましたよ。しかし、多くの国民は日中国交正常化はウエルカムだったと思う。やっぱり「親中国」は世論の中に相当あったんですよ。問題は右翼ですよ。右翼はやっぱり「殺す」ですよ。中国から帰ってきて、田中さんは自民党本部で議員たちにつるし上げられた。よく耐えたですよ。

記者:
なぜ田中さんは日中国交正常化をしたのか?

藤井:
やはり世界の大勢がそう動いている時に日本だけが逆行することはできないんじゃないかと。佐藤栄作さんじゃ無理だと。「中国は敵だ」と言ったんだから。また、「これは俺の票にもなる」と、そういう発想じゃないですか。世論も中国との国交正常化を求めるムードがずっとありましたからね。当時、貿易は台湾の方が多かったが、経済的にはあんまり関係ないと世論を説得したんですよ。むしろ中国と国交正常化したほうがプラスだと。台湾との貿易だって駄目だとは言ってないんだと、いうようなことで世論を説得しちゃったんですよ。
また、当時台湾政府の扱いについて相当北京政府とやりあった。最後田中さんは「北京政府のいうことは理解する」で収めちゃったのね。もしあの時「理解」でなく「合意」していたら、今、僕らは台湾に行くのにいちいち北京の了解を取らなくてはならない。田中さんは、そういう外交的な功績は大きいと思いますよね。

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これは、決して正史には載ることがない、毛沢東と田中角栄の一面であろう。政治家が見た、政治家の姿である。中国という国、毛沢東という政治家の本質をよくとらえたエピソードだと思う。

また、藤井は、国交正常化交渉に向かう田中、大平、二階堂は「死を覚悟していた」とも語った。藤井から聞いた、「死を覚悟した」政治家はもう2人。日米安保条約改定時に官邸を学生デモ隊に取り囲まれた岸信介総理とその弟、佐藤栄作だ。学生たちが官邸の門を打ち破ろうとしたその時、佐藤は「兄さん、一緒に死のう」と言ったという。
今の政治家で、自身の命を懸けてまで信念を貫き、自らの信じる政策を遂行しようというものはいるだろうか。

毛沢東と田中角栄のやりとりから50年。「民衆は怖い」と言い切った毛沢東の政治姿勢は、今の習近平政権であっても変わらない、中国の統治姿勢を象徴する言葉であろう。中国との向き合い方で世論が揺れる日本もまた、50年前と変わらない。50年の日中の歴史から、私たちは今、何を学ぶことができるのだろうか。

JNN北京支局長 立山芽以子