死者・行方不明者63人に及んだ御嶽山の噴火災害からまもなく10年を迎える。この未曾有の噴火災害のその後を追い続けている地元・SBC信越放送の記者が、御嶽山の観光復興に向けたある男性の奮闘とその行く末、そして今なお続く気象庁の噴火警戒レベル据え置き判断をめぐる裁判などについて報告する。
戦後最悪の火山災害
2014年9月27日。秋晴れの絶好の行楽日和の週末だった。休日で出かけようとしていた矢先、テレビの速報が流れた。
「長野・岐阜県境の御嶽山が噴火」
御嶽山(標高3067m)と聞き、まず思い浮かんだのが信仰の山ということだ。白装束に身を包んだ御嶽教の信者が頂きを目指す姿が脳裏に浮かんだ。独立峰であり長野県木曽地方のシンボルでもある。だが私に登山経験はなく、それ以上の知識はなかった。
すぐに現地に向けて出発した。だが、すでに立ち入り規制が取られ、近づくことはできなかった。警察や行政も被害の全容を把握できていなかった。時間が経つにつれ、多くの死傷者、安否不明者がいることが明らかになっていった。
山は紅葉が最盛期を迎えていた。3時間強で山頂まで登れることから、この時期は日帰り登山の人でにぎわうことを知った。

上空を飛び交う捜索のヘリコプターと目の前を通る自衛隊の装甲車に事態の深刻さを突き付けられた。火山灰が厚く積もった山頂付近で自衛隊や警察、消防による懸命の捜索が続いた。隊員たちが顔まで泥だらけになってふもとに戻ってくる姿が過酷さを物語っていた。

ふもとの長野県王滝村の現地本部には、1人また1人と心肺停止状態の登山者の発見を知らせる情報が入ってくる。休校となった旧小学校には、遺体が安置され、悲しみに包まれた。
死者58人、行方不明者5人。御嶽山の噴火は戦後最悪の火山災害となった。

この歴史的な災害にJNN各局の応援を仰ぎ、最大4台のSNG車と20近いENGクルー、そして2機のヘリコプターで取材。刻々と状況が変化する噴火災害を報道した。
SBCでは翌月、木曽町の中心部に「木曽臨時支局」を設置。火山災害に直面した人々の苦悩や復興に向けての取り組みを継続的に取材した。クルーが常駐し、噴火で負傷者の救助にあたった山小屋の経営者や医療関係者の証言、地域の観光の柱であるスキー場などの観光施設の再生に向けた取り組みなどについて、記者がレポートで伝え続けた。
