苦労する両親を見て育った
若狭には熊﨑ともう一人、忘れられない先輩がいる。それは3期先輩にあたる大鶴基成(32期)検事である。若狭はヒラ検事のときから、「割り屋」として名を馳せていた大鶴の背中を、常に追いかけるように歩んできた。
大鶴が特捜部のキャップのとき、若狭がサブキャップというコンビが最初だった。「ゼネコン汚職事件」では、大鶴が収賄側の茨城県知事を取り調べた際に、若狭は贈賄側のハザマや清水建設の幹部を取り調べた。
その後、大鶴が特捜部副部長になると、今度は若狭がキャップとなり、先に触れた通り2004年に「日歯連事件」を摘発。翌2005年には、大鶴が特捜部長に就任すると、若狭は特殊直告1班の副部長としてコンビを組む。
その「大鶴ー若狭」ラインで手掛けたのが、2000年の「橋梁(きょうりょう)談合事件」だった。日本道路公団が発注した「鋼鉄製橋梁」の建設工事の受注をめぐり、橋梁メーカーが談合を行っていたもので、日本道路公団のナンバー2の副総裁らの有罪が確定した。これは、独禁法違反事件として、発注者側が業者との共同正犯に問われた初めてのケースとなった。
若狭はその後、横浜地検刑事部長や東京地検公安部長などを経て2009年に退官し、弁護士に転身した。大鶴は特捜部長として「ライブドア事件」や「村上ファンド事件」、最高検の財政経済担当として「陸山会事件」などを指揮し、東京地検次席検事や最高検公判部長を経て2011年に退官。弁護士としてカルロス・ゴーンの弁護人などを務めた。
若狭は妻が亡くなったときに、大鶴が静かに声を掛けてくれたことが、心に残っている。
「おれの場合は父親を亡くしているが、子供にとって母親をなくすことは、本当にかわいそうだ、本当につらいことだと思う、、、」
大鶴は地元の大分県で、父親を亡くした経験があった。勉学に励み鹿児島県にある ラ・サール中学・高校から東大法学部に進んだ苦労人だ。若狭は特捜部の片隅にいた自分に寄り添ってくれた大鶴の気遣いを、今でも忘れることはない。
若狭にとって先輩検事の大鶴、特捜部長だった熊﨑とは共通のバックボーンがあった。それは子供の頃から、苦労する両親を見ながら育ったという、原風景だったかも知れない。
熊﨑は岐阜県益田郡萩原町の出身、現在の下呂市である。山あいの農家に生まれ、農作業を手伝った。父は農業を継いでほしいと思っていたという。そのため熊﨑は、高校卒業後に一旦は就職した。だが、法律家への夢を捨てられず、明治大学に入った。
そして27歳のときに司法試験に合格した。実家からは飛騨川の上流、益田川を見下ろす「御前山」が見える。夏は川で泳ぎ、広がるトマト畑やレンゲ畑でチョウを追いかけた。
「額に汗して働く正直者がばかを見るような社会であってはならない」
熊﨑に根差していたのは、そうした思いだった。
一方、若狭は東京・葛飾区生まれの足立区育ち。父の職業は、若い頃はタクシーの運転手、その後独立し、東京・足立区内で零細の町工場を営んでいた。毎日、プレス機械を踏んで、一個につき何十銭の価格で、下請け製品を加工するという仕事だった。そんな汗水流して働く父の姿が、若狭の目に焼き付いている。母は、父の工場を手伝いながら、若狭を育てた。一つ一つ丁寧に金属をはめていく、集中力と根気が必要な作業だった。そんな両親を見て、若狭は小さい時から、仕事を手伝っていた。
若狭は弁護士になったあとも、折に触れて熊﨑との交流は続いた。
2020年に「政府の判断で検察幹部の定年延長を可能にする検察庁法改正案」が浮上する。これに対して、改正案に反対する検察OBの有志が、意見書を法務省に提出することになったのだ。熊﨑や大鶴、井内ら歴代の特捜部長や特捜部経験者は「検察権行使に政治的な影響が及ぶことが懸念される」として、再考を求めたのである。意見書で検察OBは、「検察の独立性、政治的中立性と、国民の信頼が損なわれかねない」「将来に禍根を残しかねない」として検察幹部の定年延長規定の撤回を主張したのである。
そのときも、若狭は熊﨑から「よろしく頼むよ」と声を掛けられて、二つ返事で引き受け、「検察OBの38人」の一人として意見書に名を連ねることになったのだ。
熊﨑は2014年から「火中の栗を拾う」覚悟でプロ野球のコミッショナーを2期務めた。「統一球問題」や「野球賭博問題」の対応にあたり、プロ野球の立て直しに尽力した。
しかし、その熊﨑も2022年5月に亡くなった。コロナ禍の中で突然の訃報だった。
若狭は今でもふと、亡くなる直前に聞いた、熊﨑の穏やかな声を思い出す。
「若狭、今度ゴルフでもやろうや」
(つづく)
TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光
◼参考文献
司法大観「法務省の部」法曹会、1996年版
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、 2000年
若狭勝「参謀力」双葉社、2017年