『小出町史』には1945年当時の出来事が記されています。

「6月下旬、陸軍航空関係の二人の将校が伊米ヶ崎村(いめがさきむら)に現れ、八色原と近郷一帯を眺めて帰った」
「それから数日後の7月はじめに、『八色原に飛行場を建設するために土地を収用する。伊米ヶ崎国民学校校舎を兵舎に提供せよ』との命令が下った」
「既に沖縄は占領され、日本の大都市はほとんど空襲で焼け野原となっていたが、大本営は本土決戦を計画していたのであった…」

八色原で行われた急造工事。
国民学校(今で言う小学校)の初等科5・6年生や高等科の2学年、そして卒業後の青年団員らが建設に動員され、鎌やくわを手に刈った芝を滑走路に植え付ける作業などを行いました。
当時5年生だった女性が記憶をもとに描いた絵画からも、その様子がわかります。

小学4年生だった桜井秀一さん(89歳)は、年上の児童たちが勤労奉仕に出向く様子をそばで見ていたそうです。

「男の人は芝を張る作業をした。なんで芝を植えたか…。上から見たときに畑、作物を作っている場所だなということを米軍にわからせる。『飛行場ではないんです』と、そういうことを飛行機の上で見たときに、そういうこと(偽装する)のために芝を張ったと思いますけどね」

当時18歳だった森山みつさん(97歳)は、疑問を心に隠しながらも、国家のためにと働きました。

「友達と一緒に、『あんな石ころだらけの八色原を開墾して小さな飛行場なんかつくったって、特攻隊が乗るような飛行機が飛べるか飛べないか…』。それだけの飛行場ができるかできないかわからないけど、まあ一応私らは言いつけられて仕事をしているから」