
建設工事の開始から1か月あまりがたった1945年8月15日。
八色原飛行場の完成を祝う演芸会が開かれ、兵士や子どもも参加して、ひと時の賑わいに包まれました。
しかし…
【森山みつさん】
「お昼になったらやかましくなって、なんだかうるさくなって。『何があるんだろうね』なんて言っていたら…。『戦争に負けた』って。兵隊さんが怒って」
村に届いたのは敗戦の報せ。
この日完成した八色原飛行場は、一人の兵士も送り出すことのなかった“幻”の飛行場となったのです。
地元に暮らす住民たちは、当時を知る人がいなくなる前にと、その『記憶』を記した冊子を3年前にまとめました。

戦争の時代を生き、秘匿飛行場の建設に関わった、かつての少年少女たち。
そこに綴られた記憶は、子どもたちとすぐ隣り合わせにあった戦争の“事実”を語っています。
【森山みつさん】
「戦争ということだけはやってもらいたくない。何万人の人が死んだとか、何千人の人が死んだとか、そういうことを見たり聞いたりニュースでしますと、やっぱりもう絶対、戦争はやってもらいたくないですね」

魚沼市と同じような秘匿飛行場は当時、新潟県内に複数あったとみられるということで、大人も子どもも、そしてどこの地域で暮らしていても、戦争が生活に深く入り込んでいたことが伺えます。
当時を知る人が減っていく中で、『戦争の記憶』を次の世代へ受け継いでいくことが重要です。














