しくじった人を軽視する自分の気持ちに気づいても決別する機会に

人間というのはもちろん完全な生き物ではないので、意地悪なところや弱いところがあらかじめ備わっています。これはもう人間が人間であることのリスクなのかもしれません。聞くところによると、スポーツ以外にも、例えば進学や就職、結婚や恋愛、こういったことに残念ながら失敗というかしくじってしまった人をどうしても軽視してしまうという心理傾向は珍しいことではないそうです。

オリンピックやスポーツで「勝って当然」と思われていたような人が、そうではない結果に終わったとき、そこに加速度がついてしまうといいます。自分にもそういうところはないだろうかと考えてしまうんですが、その結果、心当たりがあることを恥じることもないと僕は思うんです。

そう思ってしまう「気持ちの発露」と、「実際に口にする」ことはすごく距離があるので、思ってしまったときにそれを恥じる気持ちがあって、そこでぐっと飲み込めば、もしかしたらその人はむしろ新しいステージに行けるかもしれません。「自分の中にこういうところがあったんだ。じゃあ、この芽を潰さなきゃ」と思う機会、そういう自分と決別するいい機会とも言えなくはないので。

指先で人の命を奪う実例を見ているはず

言葉にすればするほど、その言葉が自分の邪悪な気持ちをどんどん呼び起こして、ディスのためのディスみたいな感じになっていくというのが恐ろしいところです。そしてSNSは、いい具合に、いや悪い具合に、いくらでも受け皿になってくれるんですよね。

僕自身も自分が名前を出して仕事をしているということで、SNSでありがたい賞賛を受けることもあれば、自分の親がこれを知ったら悲しむだろうなというようなことを書かれたりすることもあります。

著名人たちにも、もちろん誹謗中傷してはいけないんですが、とはいえ僕たちは職業選択をした時点でまだ覚悟しやすい立場にいるとは思うんです。ただ、アスリートはそんな準備を普段やっていない。もうスターになって久しい人は別ですよ。例えばサッカーのロナウドのようなスーパースターはそういう危機に晒されてからの方がすでに長いのかもしれませんが。指先で人の命を奪うというのも、我々は実例をたくさん見てきているじゃないですか。