ある所轄の警察署での思い出
木目田にも警察との関係で思い出すことがあった。新任で東京地検に配属され、いくつかの部を経験するなかで、刑事部にいたときだった。部長が高野利雄(20期)、副部長に神垣清水(25期)、吉田一彦(25期)という精鋭の特捜検事が揃っていた。
「上司は怖かったが、ああいう環境だったからこそ、鍛えられたと思う。当時は『十分な客観証拠があるので、起訴できます』と報告を上げると、「若いやつが何を言っている。自白をとってこい」と突き返されることもあった。そういうときは、週末も所轄の警察署に通い、容疑者の取り調べにコツコツ励んだ」(木目田)
こんなことがあった。東京・板橋区で少女ばかりを狙った連続わいせつ事件があった。その中で、男が道路を歩いていた6歳の少女の腕をつかみ、強制わいせつの嫌疑で逮捕された。木目田は、ほぼ連日、週末も男に向き合って取り調べたが、なかなか自白が得られなかった。すると勾留期限満期が迫った2日前、逮捕から19日目、警察署から電話があり、「男がしゃべると言ってるから来てください」と連絡があった。それでようやく、自白を引き出したことがあった。男は、未解決だった他の複数のわいせつ事件も自白した。実は木目田の誠意が男に伝わっていたのである。
ところが、木目田がこれを先輩検事に報告したところ、返事はこうだった。
「検事が偉そうに出て行くな。こういうときは所轄の警察署に花を持たせるもんだ」
警察の地道な証拠収集があったからこそ、男は自白した。自分の力ではない。木目田は先輩検事の言った通り、所轄の警察官に電話をかけて「男からの自白調書は、所轄の方でとってもらって構いません」と、取り調べのやりとりをそっくり引き継いで、警察に最初の自白をとってもらったのであった。
木目田は大和証券の事件が終結すると、「大蔵省接待汚職」の捜査に加わった。その後、1998年6月からアメリカのロースクールに客員研究員として派遣される。いったん特捜部から総務部に異動し、英語を勉強したあとに渡米することになっていたのだが、異動は取りやめとなった。特捜部の2年目は「特殊直告2班」から「特殊直告1班」に移って、出国の直前まで特捜部に在籍した。特捜部で事件を抱えていたからだ。
「アメリカの航空会社で成田を出発して、機内で英語でCAから話しかけられても、ほとんど理解できず、英語の勉強を怠ったことに暗澹たる思いだった」
本筋の総会屋への利益供与、大蔵接待汚職ではなく、突然浮上したのが現職の警視庁幹部の汚職事件だった。特捜部は当時、4大証券、第一勧銀事件から派生した大蔵省官僚について複数の「接待ルート」の捜査班が併行して捜査を進め、大蔵省接待汚職の摘発に向けて大詰めを迎えていた。連日、参考人、容疑者の取り調べが深夜まで続き、特捜部の検事も事務官も逼迫した状況だった。
こうした状況を勘案すれば、警視庁幹部の汚職に、あえて着手する事件かどうか、判断の余地があったことは確かだった。しかし、検事正の石川も特捜部長の熊﨑も「目の前に証拠がある」にもかかわらず、立件を見送って特捜現場の士気を下げるようなタイプの指揮官ではなかった。
ある元特捜検事は当時を振り返り、「あの警視庁幹部の汚職事件は、石川-熊﨑のラインでなければ立件しなかったかもしれない」と語った。
1998年12月、H警部の判決公判で東京地裁の植村立郎裁判長はこう述べた。
「当初は、大和証券から持ち掛けられたとは言え、次第に接待やつけ回し、わいろを積極的に要求するようになった。同僚や部下も接待の場に巻き込み、警察大学校の寮にまで現金を郵送させたほか、職場で受け取るなど、贈収賄事件の発覚が少ない最近においても、一段と悪質な犯行だ」
そして「実刑なので、社会人として再スタートするには困難がつきまとうが、これまでの行いと自覚して、別の形で貢献できるようにしてください」と諭されると、H警部は記者席にもわずかに聞こえる小さな声で「はい」と答えたのであった。
(つづく)
TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光
◼参考文献
井内顯策「愚直な検事魂」人間社、 2020年
尾島正洋「総会屋とバブル」文春新書、2019年
司法大観「法務省の部」法曹会、1996年版
「朝日新聞」「毎日新聞」「読売新聞」「東京新聞」「産経新聞」各紙参照