■ 未来しか考えずに生きてきた77年「今になって 悔しさの湧いてきた」

岸アナ:
「どうやら、この人みたいさね、中村 淑子さん。3年前、2019年の12月に亡くなっとるごたっ」
祖父:「…惜しかったねぇ」

中村 淑子さんは母のサダさんだけでなく、5人兄弟のうち一番上の兄と、一番下の妹も原爆で失っていました。

淑子さんは、宇都宮や、神戸、福岡などで教師を務め、家族を失った自分の体験から『戦争や原爆の悲しみ』を生涯を通して教え子に伝えていたそうです。

祖父:
「残念だなあ…。2、3年早ければな。ここまで掘り下げてくれたことは、びっくりしたばい。よかったです、本当、こいで供養のできる」
原爆のことを振り返らず、毎日を生きることだけに一生懸命だったじいちゃんに、今までにはなかった感情が芽生えていました。

祖父:
「あぁ、今、やっと悔しさの湧いてきた。大切なことばさ、ほっぽっとった(=放っておいた)なって。今、あの…悔やむ気持ちの湧いてきた」


岸アナ:
「(今回の取材で)じいちゃんも苦労してたのが分かったし、親族の中村家の皆さんもね、苦労しとったのがわかったけん…。被爆3世という肩書は持っとったけど、肩書でしかなかったけん。今回、色々知れて。皆さんが傷ついたけど頑張って、生きてきたけん、今があるなっていうのは思うよね」

初めて知ったじいちゃんや親族の体験と その痛み。
私は、今ある平和の重み、自分の命の重みを感じました。
(スタジオ補足)
今回調べを進める中で中村淑子さんが所属していた修道会の方とやり取りをさせていただきました。

その際に「生前、戦争の悲惨さを伝えていた中村淑子さんも、平和のためにお役に立てることをきっと喜ぶと思います」とのお言葉を頂戴しました。
今回「つなぐ、つながる」というテーマで取材しましたが、終戦から77年を迎えた今、昔の人がどんな道を歩んできたか知ること、見つめなおすことは改めて大事だと思いました。