現金「3億2,000万円」の衝撃

話を戻すと、「SEC」から帰任した粂原が「絵画台帳」を再度、ブツ読みして分析した結果、野村証券が絵画取引で裏金をつくり、小池に渡していた疑いが浮上した。この情報は粂原から主任検事の井内に報告され、「東京拘置所組」の検事に伝えられたのである。

そして野村証券の総務部元理事が黒川の取り調べに対し、現金「3億2,000万円」を小池に渡していた事実を認めたのである。しかも、驚くべきことに酒巻社長が指示、了承していたのであった。夜になって主任検事の井内からこの報告を聞いた副部長の笠間治雄(26期)は、すぐに特捜部長の熊﨑に報告した。

「大変なことになりました!野村証券は社長の指示によって本社応接室で、現金『3億2,000万円』を小池隆一に渡していました」

それは証券業界のリーディングカンパニーが反社会勢力である総会屋に「現ナマ」を渡していたという、衝撃的な事実だった。しかも経営トップが指示、了承していたのである。

特捜部の調べや裁判記録などによると、現金の受け渡しが行われたのは、株主総会を目前に控えた1995年3月24日に遡る。白昼堂々、やりとりが交わされたのは、東京・日本橋の野村証券本社総務応接室の中だった。

野村幹部らの供述はある大事件の記憶とつながっていた。ちょうど同じ頃、戦後事件史に残る、日本列島を震撼させるテロ事件が起き、小池との面会はその直後に実現していたのだ。

3月20日、地下鉄霞ヶ関駅などでオウム真理教により猛毒のサリンが撒かれ、多数の死者が出た。22日には警視庁がオウム真理教の強制捜査に乗り出し、山梨県上九一色村の教団施設「サティアン」を家宅捜索するなど、日本中が不安に包まれ、騒然としていた。小池隆一が野村証券を訪問したのは、オウム真理教強制捜査の翌々日だった。東京地検は小池の訪問した当日のやりとりを「冒頭陳述」で克明に述べた。

野村証券本社(当時)
酒巻社長の参考人招致(1997年)

「野村証券本社の地下に車を止めて、小池が現れたのは午後1時すぎのことだった。
小池は手に2つのスポーツバッグを下げて、応接室に入ってきた。
応対したのは総務部元理事だった。総務部元理事はF元常務から託された現金1億円を用意して待っていた。
カネは1,000万円ずつ輪ゴムで束ねられている。輪ゴムはF元常務の指示によるものだった。帯封だと、カネの出所がわかるおそれがあるからだ。
小池は用意したスポーツバッグに無造作に詰め込む。F元常務が約束した金額は「3億2,000万円」である。残り「2億2,000万円」が、まだ部屋に届いていなかった。

小池は次第に険しい表情になった。
「まだですか」
「いったい、いつまで待たせるんですか!」
「銀行の支払いに間に合わなくなってしまう」

小池が口にした銀行とは「第一勧業銀行」のことである。この日は融資返済の期限だった。小池は苛立ち、残りのカネが届くのを待つ。

ジュラルミンケースに入った「2億2,000万円」が部屋に運び込まれたのは、午後2時半すぎ。総務部元理事はケースを開け、小池に「お納め下さい」とさし出した。

中にはビニールでパックされた「1億円」が2包みと「1,000万円」の束が2つ入っていた。
小池はカネをスポーツバッグに詰め込み、2つのバッグを総務部元理事らに地下の駐車場まで運ばせ、車の後部座席に入れた。

小池が車で向かったのは、内幸町の「第一勧業銀行本店」だった。実弟と合流し、銀行の担当者を呼び出して「3億2,000万円」を渡し、実弟が名義上社長となっている「小甚ビルディング」の口座に全額入金するよう指示した。

特捜部によると、あわせて「3億2,000万円」の現金は、小池の実弟の口座「小甚ビルディング」の損失の穴埋めとして、野村証券が捻出した裏金だった。
酒巻社長(当時)は、応接室での現金授受の場には立ち会っていなかったが、事前に報告を受けた上で指示、了承していた。つまり小池に対する現金の提供に、経営トップが深く関与していたことが裏付けられたのである。

「非常手段」を使って用意した現金「3億2,000万円」は裏金であるため、もちろん帳簿のどこにも載せられない。しかし、東京地検特捜部は家宅捜索で押収した資産一覧の「絵画台帳」に記載された、わずかな「ほころび」を見逃さなかったのである。
その方法は裏金分を上乗せして絵画を購入、還流させるという巧妙なスキームだった。(敬称略)

(つづく)

TBSテレビ情報制作局兼報道局
「THE TIME,」プロデューサー
岩花 光

■参考文献
村山 治「市場検察」文藝春秋、2008年
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」新潮社、2000年
村串栄一「検察秘録」光文社、2002年
立石勝規「東京国税局査察部」岩波書店、1999年