沖縄に戦争の暗い影が
生徒数は、その後、徐々に増え、福治が沖縄に渡って20年余りが経った1943年には県立学校になりました。

しかし、沖縄に戦争の暗い影が迫ります。
1944年10月、沖縄は激しい空襲を受け、生徒たちは、学校から3キロほど離れた公園に避難しました。空襲の直前まで学校の生徒と一緒に過ごしていた一郎さんは次のように振り返ります。

(高橋一郎さん)
「生徒さんはどんなして逃げたっちゃろうかね。目が見えんからね、ただもう音だけじゃわね、音だけ。だからうちの親父は雷が大きいのが鳴ると毛布をかぶりよった。毛布を。やっぱり戦争の記憶が残っちょるとやわね。戦争の激しさが」

翌年2月、福治は生徒の疎開先を探すため、宮崎に戻ります。

しかし、沖縄で地上戦が始まり、生徒たちを宮崎に呼び寄せられないまま、福治は県内で終戦を迎えました。
(高橋一郎さん)
「残念至極という気持ちがずっとあったろうと思う。帰るにも帰られんから。みんなの顔も見られない。話もできん。自分で思うことも実行できん」
沖縄盲学校は100周年
昨年度、沖縄盲学校は100周年を迎えました。

内間校長は、戦時下の障害者の苦労について次のように慮ります。
(沖縄盲学校 内間秀樹校長)
「有事の際に特にあの時代に、人権が確立されていない時期の戦争の際には全く障害のある方に配慮するゆとり、余裕はないと思いますので、そういう際には真っ先に犠牲になる確率が高いのではないかなと考えています」

戦後も沖縄との交流を続け、視覚障害者の教育や福祉に関り続けた福治。
学校には胸像が建ち、今も生徒たちを見守っています。
(高橋福治の音声)
「小さい生徒と一緒に歌った歌を一曲歌って、お礼の言葉にかえさせていただいます。♪春が来た」

※MRTテレビ「Check!」8月15日(月)放送分から