特捜部から福岡地検特別刑事部へ

粂原は「水原委員長の決断」を述懐する。

「捜査機関の上司というのは、水原さんのような存在であるべきだと思う。上司によっては、尻込みして、なんだかんだと理由をつけて調査を終結させる方向に動いたのではないだろうか。未だに企業と総会屋との腐れ縁を存続させていたかもしれない」

水原は、かつて特捜部に長く籍を置き、「日通事件」など数々の大型経済事件に携わった捜査の「筋読み」のプロでもある。おそらく粂原の報告を聞いた時点で、「野村証券は絶対に事件になる筋だ。これは大丈夫だ」と確信し、「SEC」の総力を挙げて取り組むよう指示したのだ。

粂原は翌年、野村証券や日興証券から国会議員への不正なカネの流れを担当する「政界ルート特命班」のキャップを任される。そうした中、逮捕後も取り調べを担当する予定となっていた自民党衆院議員・新井将敬が逮捕直前に死亡したため、事件は不起訴となった。そのタイミングで1998年春、特捜部から福岡地検特別刑事部長に異動した。新井将敬事件については稿を改めて記したい。

粂原は異動後も独自捜査に力を入れた。福岡地検特別刑事部長時代は、無人島を4億5000万円で勝手に購入していた「福田学園前理事長」を背任罪で起訴した。その後、全国に3つある特捜部の1つ、名古屋地検特捜部長に就任する。

そこで2001年に、「名古屋刑務所刑務官」による受刑者に対する暴行致傷事件が起きる。刑務官らが「懲らしめ目的」で、受刑者の腹部に巻き付けた革手錠を強烈に締め付けて、受刑者1人が死亡。また消防用ホースを使って受刑者の肛門めがけて放水し、直腸裂開などの傷害を負わせ、受刑者1人が死亡した。

関係者によると最高検察庁は当初、立件に難色を示していたという。通常の検察の相場感で言えば、刑務所を所管する身内の法務省の責任にもかかわるハードルが高い事案だった。
それにもかかわらず、名古屋地検特捜部は難局を打開し、最終的には摘発にこぎつけた。このときも特捜部経験者だった当時の地検トップによる「決断」があったからだと言う。

この事件を、すぐに捜査するよう現場に命じたのが名古屋地検検事正の池田茂穂(22期)だった。池田は「特捜事件を熟知した」指揮官だった。「ロッキード事件」や、糸山英太郎議員の選挙違反事件などに携わり、東京地検刑事部長、神戸地検検事正を経て2002年1月に名古屋地検検事正に就任した。
この「名古屋刑務所刑務官事件」は、さまざまな関係組織に与えた影響も大きく、国会等でも大々的に取り上げられた。検事正の池田は「真相を解明すべき、摘発価値のある事件」であると判断し、当時、人員体制も整っていなかった名古屋地検刑事部(警察からの送致事件を処理する部署)から、独自捜査を担う粂原率いる名古屋地検特捜部に事件を移し、徹底解明を命じたのであった。

その後、刑務官らは「特別公務員暴行陵虐致死傷」で起訴され、4人の有罪が確定した。この間、名古屋地検検事正は池田から2002年12月、大塚清明(23期)に交代するが、大塚も「イトマン事件」や「尾上縫事件」「末野興産事件」などを手掛け、大阪地検特捜部長を務めた特捜検事でもあり、粂原ら現場の支えとなった。

事件が起きた「名古屋刑務所」
革手錠(資料)