きっかけはサイクルショップ

地元・岡山に戻った太田は内装等の仕事をする中、現場仕事に伴う移動手段が求められるようになり、全財産を握りしめて自転車ショップに飛び込む。
太田:
めっちゃ体力あるから、20万の自転車と俺が噛み合ったらどこへでも行けるんじゃない、県内どこでも働き行けるんじゃないかなみたいな感覚でもう一番高い自転車買いに行ってやるぐらいの感じでちょっと雰囲気の良さそうな自転車ショップに入ったら、20万円ではそんないい自転車が実は買えなくて。もう全然100万以上するじゃん、みたいな。これ全然駄目じゃんってなって。その時にたまたま自転車ショップの社長(サイクルショップ フリーダム 恒次 智さん)が接客してくれて…僕20万しかないんで買えないですっていうふうに話してたら、今、求人募集してるから、ウチで働きながら自転車は最初お店で買って、1年間ぐらい掛けながら返していってくれたらこの一番いい自転車でも買えるよみたいなことを教えてもらって…そこから本当1ヶ月ぐらい経って就職させてもらった感じですかね。

驚きの行動力で自転車競技との運命的な出逢い

太田:
働きながら自転車に触れる機会がどんどん増えていって。その中で、自分は自転車に乗りながらお金を稼いでいくプロっていう仕事が向いてるんじゃないかなっていうふうに、日々そういう思いが強くなってきて。その中で自分としては、自転車で日本でプロで食べていける職業って言ったらロードレーサーか競輪選手ってのが一番に思い浮かんで。その中で自分の身体能力ってのを見たときに、圧倒的に競輪選手というかスプリント、短距離のほうが向いているという感覚があったので、絶対に競輪のプロの選手になるっていうふうに決めたのが自転車の出会いでした。

サイクルショップでの接客にしろ、普段もロードレース等で乗る事にしろ、誰よりも自転車愛を持っていると自覚していた太田は競輪学校入所でその才能を開花させる。抜群の成績を叩き出し、日本競輪選手養成所では史上2度目となる早期卒業(※通常は5月入所で翌3月卒業の所、12月卒業)で一年足らずで競輪選手デビューを果たした。とはいえ、世界の舞台は才能だけでは活躍出来る世界ではなかった。それでも、強くなる方法を模索出来る情熱が太田にはあった。

太田海也「いろんなこと経験したから、自分が自転車好きっていうのがわかる」

太田:
22年の世界選手権に出て、世界のレベルがこんな感じなんだみたいなのに初めてその年の年末に気づいて、世界のレベルすごい高いなって思う反面、あと1年かけたらもしかしたら同じぐらいに行けるんじゃないかなっていう自分自身に期待したのを覚えてますね。そこでオリンピックっていうのを結構明確に見つめだしたのかなっていうふうに思います。

パリ五輪イヤーを迎え、主要大会を制している太田は一躍、金メダル候補になっている。