広島に原子爆弾が投下された1945年8月6日から77年です。被爆者の高齢化が進み、当時の状況を語れる人は少なくなっています。

17歳の時に被爆した94歳の女性が、岡山市にいます。痛ましい体験と平和への思いを語ってくれました。

(小野田久子さん)
「朝起きていちばんに外を見たら、青空で雲一つ無かったから『今日はお天気だな』と思っていた瞬間。8時15分だった、後で分かったのが。ピカーっと光ったの」

1945年8月6日の朝、広島市の中心部に原爆が投下されました。炎が街を包み込み、その年の終わりまでに約14万人が死亡したと言われています。

あれから77年…被爆した人には、当時の記憶が今も鮮明に刻まれています。岡山市北区で暮らす小野田久子さん(94)です。

広島生まれ。17歳の時に、爆心地から1.7キロ離れた自宅で被爆しました。

(小野田久子さん)
「その時は、家族のことは一つも思わないよ。母もいたけど、自分のことだけしか。ピカっと光ってどーんと家が倒れたんだからね」

「外を見たら、皆どんどんどんどん逃げている。何にも残らなかった。あっという間だし。何とも言えないね広島の時は」

7人姉妹の末っ子の小野田さん。爆風で割れた窓のガラス片が顔に刺さったまま、必死で逃げました。母親と6人の姉は無事。

しかし父親は大やけどを負い、原爆投下の数日後帰らぬ人となりました。

優しかった父は、原爆投下の数日後に亡くなった

(小野田久子さん)
「いちばん末っ子だからね。いつもお父さんとお母さんの間に寝ていたのは覚えている、お父さんは優しいから」

被爆した小野田さんを姉が描いた

被爆した時の小野田さんを、姉が書いた絵です。強烈な熱線を浴びて、顔や腕が真っ赤に腫れ、変わり果てた姿でした。

一瞬にして日常を奪い、家族を引き裂いた悲しい記憶は、傷として今でも身体に残り続けています。

(小野田久子さん)
「ここと、ここと、目が裂けた。ピカっと光って、わっと押さえたから、こっちの手もどこかに怪我をしているよ。血管が見えるくらい」

「でも痛くも痒くもない、でもウジはわいたよ、小さいアリみたいな。だから大きな傷はここに1つ」

戦後、小野田さんは結婚して、広島から岡山に移り住みました。しかし、何年経っても薄れることのない戦争への恐怖…。爆撃機が上空を通る当時の光景が、頭から離れません。

(小野田久子さん)
「空。毎日あの頃には、起きた一番に空を見るクセがついていた。飛行機が通るじゃない、旅客機が。そしたら時々、一応外に出て見る。飛行機の爆音はなんとも言えない」

同じ苦しみを繰り返してはいけないと、小野田さんは被爆体験を次の世代に伝える活動を行ってきました。被爆者の平均年齢は84歳を超え、当時の状況を語り継ぐ人は少なくなるなか、改めて戦争の愚かさを訴えます。

(小野田久子さん)
「戦争は『国取り』ではない。『人の命取り』がまず1番と考えているよ。今頃よく戦争しているじゃない、ロシアのこっちの辺の。あんなのを見て、もう戦争なんかはするもんじゃない。とにかく話し合って穏やかに」

平和を、皆の手で守ってほしい。これから必要なのは、悲惨な過去について自ら知ろうとする姿勢です。

(小野田久子さん)
「原爆の話は、私たちがおとぎ話を聞いていたみたいな、ああいう感じになるなと思った。戦争なんかは。それでも気を許したらだめだと思うよ、自分で考えて行動しないと。それは大事だと思う」

77回目の夏…。多くの人の、語り尽くすことのできない痛みの上に今があります。平和を願いながら今年も8月6日を迎えます。

(94歳の小野田さんは、8月6日午後8時から岡山ドーム周辺芝生広場で行われるイベント「都市の森ニューギャザリング」で、体験談を語る予定です。)