3人の米軍機搭乗員を殺害したことに対して、41人の元日本兵に絞首刑が宣告された石垣島事件の戦犯裁判。1945年3月、結審した日。判決を前に司令の井上乙彦大佐は、弁護団に礼状を送っていた。「思い残す処なきまでし尽くした」と書いた井上大佐。死刑を宣告された他の兵たちも弁護人に同じ思いだったのかー。

◆判決前に書いた弁護団への礼状

井上乙彦大佐が弁護人らに宛てた礼状(国立公文書館所蔵)

井上乙彦大佐の礼状は、国立公文書館の資料の中にあった。石垣島事件に関わった弁護士の元から提供されたとみられる資料一式が綴じ込まれたファイルだ。閲覧できるのは、原本ではなく、コピーなので黒ずんでいる。それでも、流れるような達筆であるのは分かる。

日付は1948年3月9日。この日、横浜軍事法廷では、弁護人の最終弁論が行われて結審した。判決日は3月16日だ。前年の11月末から始まった裁判は、その冬のシーズン中、ずっと行われていた。まず「冬中の長い間、私達のご弁護ご指導に感謝」というところから始まる。礼状には、「弁護側口述書の作製や被告の個人主張」に配慮いただき、「一同、思い残す処なきまでし尽くしました事は、ひとえに皆様のご厚意の賜と深く感謝致しています」と書かれている。

(井上乙彦大佐の弁護人への礼状)
「最終弁論も終わりまして、私達はあと心静かに判決を待つばかりで御座います。一同を代表して厚く御禮申し上げます。 3月9日 井上乙彦 外一同」

◆「証言台にも立てず」思い残すことはなかったのか

死刑を宣告される井上乙彦大佐(米国立公文書館所蔵)

4人の弁護人宛に、井上大佐は「代表して」礼状を書いた。しかし、部下の兵士たちがこの礼状と同じ思いでいたかというと、そうではない。

1964年に法務省の面接調査に応じた宮崎県在住の元二等兵曹は、法廷で証言できた下士官は数人であり、その他の者は「予め証言しない方が有利だから、証言台に立ちません」と、日本人弁護人から含まされて、誓約書にサインさせられていた、と述べている。この人は、弁護団にもかなりの不満を持っていて、そのような策が採られた理由は、「井上勝太郎副長を助けんがためにやったことである」と指摘している。

◆裁判の形を整えるための弁護人?

石垣島事件の法廷(米国立公文書館所蔵)

1967年に調査に応じた大分県在住の元一等水兵も、弁護人から「証言してもしなくてもさしたる変わりはないだろう。証言台に立って却って拙い結果になることもあり得る」と言われ、この言葉を尊重して、証言台には立たなかったという。この元一等水兵は、弁護人個人の働きというよりは、戦犯裁判における弁護人の位置付けについて疑問視している。

(元一等水兵の面接調書 1967年)
「この戦争裁判では殆ど発言の自由はなかった。随って我々が弁護人に種々話して頼んでおいたことも、果たしてどこまで裁判所に通じ得たかは全く疑問であった。弁護人はただ裁判の形を整えるために付けられたのだとの感を深くした。弁護人から判決後に裁判所に対し、『被告の最後の訴え』を許されたい旨嘆願したが、それさえも許されなかった」