スガモプリズンで獄死した海軍少尉が、戦犯裁判がすべて終わってから書いた「石垣島事件の概要」。そこには、米軍機搭乗員3人の処刑方法を、司令の大佐が決めたことが記されていた。裁判中は、司令も副長もあいまいな証言で、命令系統を明らかにしなかったという。二人には大きな年齢差があり、これが影響したのかー。

◆慶応大生だった若き副長

石垣島事件の横浜軍事法廷(前列 左端が井上乙彦司令 隣が井上勝太郎副長)

石垣島警備隊の副長だった井上勝太郎大尉は、1950年4月7日に処刑された時は27歳。岐阜県出身で、復員後は慶応義塾大学の学生だった。独身で家族は母と妹、弟。戦争で父を失っていた。52歳の井上乙彦司令とは親子ほどの年の差がある。

戦後19年の1964年に、法務省の面接調査に応じた宮崎県在住の元上等水兵が、裁判中に感じたこととして、次のように述べている。(元上等水兵は一審で死刑、再審で終身刑)

「井上勝太郎副長をかばう空気が強かった。彼は海軍兵学校出身の優秀な若い将校には違いないが、若いといえば、われわれの方がもっと若い。彼のために何かつかまされているのではないかと疑っている。司令も副長も責任を取らない。特に副長が逃げようとしていた。そこに命令系統が崩れた原因があった。下士官は、取り調べて当たり前のことを云っている。皆が証言しているから事実は動かすことはできない」

元上等水兵は、法廷で下士官が証言したのは2人だけで、そのほかの者は「予め証言しない方が有利だから、証言台に立ちません」と日本人弁護人から誓約書にサインさせられていたという。この制約も、井上副長を助けるためにやったことであろうとしている。

さらに法廷であいまいな証言をした、司令の井上乙彦大佐も、副長をかばおうとしていたのではないかと述べている。

◆司令は副長をかばった?

井上勝太郎大尉(米国立公文書館所蔵)

「(井上大佐は)自分がやらしたのだと受け取れる証言はなかった。責任を取らなかった。はっきり云えば、副長をかばう気持ちがあったのではないか。弁護人との間に、自分はあきらめるが、副長は助けたいという気持ちを伝えていたのではないだろうか。司令は自分では極刑を受ける自覚があったであろう。しかし、一人二人をかばうために、云わねばならぬことを云わず、命令系統をあいまいなものにしてしまった。副長をかばったことが、下級者に大変な影響を及ぼした。いったい、副長を経ずして、中隊長に、司令が命令を下すことはあり得ないのである」