「日本の子だ」といわれるのがとても怖かった
自分が日本人だということは知っていたという宇都宮さん。日本人だという理由で近所の人から罵られたこともあったといいます。
宇都宮孝良さん
「中国人は日本人を憎んでいました。誰かに『日本の子だ』といわれるのがとても怖かったです」
そんな時、いつも養父母は「私たちが本当の親だ」とかばってくれました。

日本と中国が国交を回復してから9年後の1981年、宇都宮さんはようやく肉親を捜しに日本を訪れることができました。残念ながら両親は亡くなっていましたが、難民収容所で一緒だった人が宇都宮さん一家のことを覚えていたのです。本当の名前が「宇都宮孝良」であることもわかりました。1985年に日本国籍を取得。中国で行っていた列車修理の仕事の経験を活かし、日本でも鉄道関係の仕事に就きました。家族とともに今は日本で暮らしています。
宇都宮孝良さん
「自分の本当の名前がわかった時はうれしかったです。日本の環境にはすぐ慣れましたが、言葉が障壁となり、最初は戸惑いました」
「私にはふたつの家がある」残留孤児たちが伝えたいこと
今回、宇都宮さんは残留孤児の仲間とともに自分たちを育ててくれた中国への感謝の気持ちを伝える交流会に参加。黒竜江外国語学院で、両親と離れ離れになった経緯を描いた劇や歌を披露しました。

残留孤児を代表してあいさつをした池田澄江さんは次のように学生たちに語りかけました。
池田澄江さん
「私たちは日本の血をひいていますが、中国の大地に根を張って育ちました。ここは私たちの第二の故郷であり、切り離すことができない青春の記憶と恩恵があります。私たちの歩んだ特別な人生の軌跡が、私たちに日本と中国に対する極めて深く複雑な感情を抱かせると同時に、誰よりも平和の尊さと友好の重みを深く理解させてくれました」

そのうえで、外国語を学ぶ学生たちにこうよびかけました。
池田澄江さん
「『歴史の負の遺産は後世の人たちが負うべきではない』という人もいますが、歴史の教訓は必ず記憶されなくてはなりません。特に若い人たちが歴史を教訓とし、未来に向かうことを願います。外国語は世界をつなぎ、国境を越え、相互理解を深める懸け橋になります。どうぞ、中日間の交流を促進する懸け橋となってください」

劇を見た大学生
「中国の日本人は全員帰国したと思っていたので残留孤児について知った時は衝撃を受けました。戦争は確かに日本人への憎しみの感情をもたらしました。しかし残された子どもに罪はありません。彼らには同情します」

劇をみた大学生
「劇を通じて残留孤児についてよく理解できました。非常に衝撃的な内容でした。中国と日本は平和に共存してほしいと思います。交流を通じてともに発展していけるはずです」
最後に全員で合唱したのは「我有两个家(私にはふたつの家がある)」。

♪ 私にはふたつの家がある。祖国に戻っても中国の家は忘れない。夢の中で泣きながら中国のお母さんを呼んでいます
戦後80年。残留孤児たちも高齢化が進み、訪中は今回が最後になるといわれています。

宇都宮孝良さん
「日本が戦争を起こさなければ私たちもこのような悲劇にあうこともなく、家族が離散することもなかったでしょう。私にはふたつの故郷があります。ひとつは日本。ひとつは中国です。中国の人たちが私たちに示してくれた恩恵は本当に忘れません。私たちは日本と中国の懸け橋となり、絆となるべき存在です。これからも日中関係が友好的に発展することを心から願っています」
取材 JNN北京支局長 立山芽以子