日本の「ひとり」史

1970年代は、1億総中流社会と表現されるように、みんなが同じ豊かさを求めていた時代であり、みんな同じ、従ってみんなと異なる行動が難しい時代であった。1980年代に入ると組織や制度から脱却し個性が求められるようになり、「ひとり」という状態がアイデンティティとして成立したり、社会(普通の状態)から逸脱していること自体を特殊な状態として記号化されることもあった。「独身貴族」「家庭内離婚(86)」「成田離婚(90)」「バツイチ(92)」「シングルマザー(94)」などのラベリングがされるようになったのは正に80年代から90年代前半にかけてであり、子どもの個食や家庭内での個食などが問題視され始めたのもこの頃だ。

その後、バブル崩壊や震災を経て、「ひとり」でいることが不安を生み出す要因として捉えられるようになる。この頃には、「ひきこもり(94)」「パラサイトシングル(97)」「便所飯」「ぼっち」「リア充・非リア充」「婚活(09)」「無縁社会(10)」など、一人でいる状態に対するレッテル的造語が多く生まれた。併せて「ひとり」を肯定的に捉える「おひとりさま」が2005年に流行語にノミネートされ、2009年にはTBS系列で「おひとりさま」というドラマが放送された。このような背景から所謂「おひとりさま」市場が拡大し始め、「ひとり○○」というカテゴリーが市場に浸透していき、普通複数人でやる(消費)ことに対して、一人で消費するというコト、もしくは一人で消費できる環境の提供が付加価値となっていった。「ソロ充」「ソロ活」など一人で何かを消費するコトそのものがコンテンツとして成立していった時代でもある。

そして2020年には新型コロナウイルスが流行したことで、コロナ禍における「3つの密(密閉空間、密集場所、密接場面)」によって人との接触を回避するために、一人で行動することが推奨され、「ひとり」消費がさらに定着していった。

「さーて、今から一人で焼肉に行っちゃうぞ~!!」

飲み会などでも自分が席を外している最中に自分の陰口を言われたくない、自分がいない場で盛り上がっていたら嫌だという疎外感は不安となってトイレに行くのすら難しいと考える者も多い。一人で消費できる人がいれば、一人では消費できない人がいるのであり、一人で消費できなくても悪いことではなく、それは個人の選択であり尊重されるべきであろう。ただ、複数人で消費するコトを肯定するあまり、一人で消費するコトや、消費している人を蔑んだり、ラベリングしたり、特別なモノとみなして、一人でいる状態を異質なものとして考えることはやめるべきである。

筆者が一人消費に対するネガティブ感覚に否定的なのは、筆者自身がそれこそ飲食店などに一人で訪れる客、を指す表現としての「おひとりさま」としての消費機会が多く、ひとり焼肉、ひとり海外旅行、ひとりテーマパークなど、「ひとりである」ということを好む消費者であり、なによりその合理性を知っているからである。そのような所謂「ひとり○○」を行う時に、「さーて、今から一人で焼肉に行っちゃうぞ~!!」なんて心構えはしてはいない。隣で食べている家族連れ同様に、ただ焼き肉を食べに来ただけであって、それ以上の意味など存在しない。

今や消費者の大半が何かしら大なり小なりの「ひとりで消費活動」を行っており、普通ではないとレッテルを貼ること自体ナンセンスだ。性別や年齢、婚歴の有無といったカテゴライズの前に、我々は個人であり、一人の消費者である。自身の資源(金・時間)を有効に活用し、効用を最大化し、機会損失を防ごうとするためには、一人で消費した方が合理的なことも多いはずだ。

1950年代にテレビが家庭に普及し始めた当時、一台のテレビを家族で、場合によっては近所で共有していたため「チャンネル争い」が絶えなかったという。その場にいるすべての人が満場一致で見たいモノを視聴するという事は困難であった。

他人と共同するということは、楽しみや話題を共有出来たり、孤独でないという状態に安心感を得ることができる。また、費用を割り勘することができたり、安全の側面から見てもリスクの軽減につながるといったメリットがあるのも確かだ。

また、誰かと時間やお金を消費するコトは、帰属欲求や共感欲求を充足することに繋がる。何を消費するかよりも「誰」と消費するかが重視されることもある。この時、消費の目的はもちろんその消費によって見出される直接的効用ではあるが、その人と過ごした時間が付加価値を生み出している。場合によっては、その人と時間を過ごすために何かを消費するという直接的効用がおまけになっている時もある。

しかし、先ほどのテレビの例に限らず、友達や家族で出かけたとしても、行き先や食べるモノ、そこで費やす時間や、そこで使える予算が一致しない結果、ストレスやもどかしさを感じることはないだろうか。そのような面からみると、ひとりで消費するということに対して、他人がその光景から“一緒に消費してくれる人がいない・いなかった”、と勝手に解釈し、それを「記号化」し、寂しい人、孤独な人、変わっている人といった具合に、社会が構築したネガティブなコンテクストを勝手に付与するのはお門違いで、あえて一人という選択をしているという、消費の仕方の多様性の側面から解釈されるべきであろう。冒頭で挙げた、コンサートに行きたいのに一緒に行ってくれる同じ趣味の人がいないから諦めるというのも、自分自身の趣味であるのに、他人の存在に依存しなくてはいけないことになり、非合理的だ。