日本の実質賃金上昇に求められる政策

以上を踏まえて、以下ではこれからの実質賃金の安定的な上昇に向けて、経済政策運営に期待することについて述べてみたい。

33年ぶりの高水準となる春闘賃上げ率や32年ぶりの国内設備投資額という潮目の変化が起きている中で、賃上げと経済活性化を伴う良いインフレを定着させるためには、国内の供給力を強化し、日本経済を成長軌道に乗せていくことが不可欠だろう。

そのために、最も手っ取り早い取り組みとしては、労働時間のマイナス寄与を縮小させるべく、行き過ぎた労働時間規制の緩和が効果的だろう。過重労働を抑制することも重要だが、それによってもっと働きたい人の労働供給を抑制してしまっては本末転倒である。

また、米国に劣後する労働生産性の引き上げに関しては、世界で誘致合戦となっている戦略分野への投資拡大に加え、国内の立地競争力向上につながる税制優遇や、そうした国内供給を担う人材育成も重要になってくるだろう。これからは生成AI全盛の時代になり、ホワイトカラー人材の需要が減る一方で、手に職系人材の需要が増えることが予想される。こうした変化に対応すべく、経常黒字のほとんどを貿易黒字で稼ぐドイツのマイスター制度等も参考にしながら、若いうちから手に職系人材の育成を進め、そうした人材が稼げる経済構造を構築することが不可欠だろう。

さらに、交易条件のマイナス寄与を縮小させるには、原発も含めた電力供給力向上などに向けた取り組みも重要だろう。

一方、2024年の春闘賃上げ率が33年ぶりの水準となったことで、一時的に実質賃金がプラスに転じており、今後のインフレ率低下とも相まって、来年度以降の実質賃金の安定的なプラスを期待する向きもある。

しかし、法人企業統計季報から簡便的に試算した労働分配率は1980年以来の水準まで低下しており、仮に労働生産性が上昇して交易条件や労働時間の寄与が押し上げに転じたとしても、実質賃金が上がりにくくなっている。

主な理由としては、労働市場の流動性が低いことで、経営側の人材流出に対する危機感が薄いことが指摘されている。こうしたことからすれば、政府は企業の約三分の二を占める赤字企業には賃上げ優遇税制よりも、中途採用を積極的にした企業や転職者に対する優遇税制を施すほうが労働市場の流動性を高めて、結果的に賃金上昇に結び付きやすくなろう。

さらに、年収の壁を意識して労働時間が抑制されていることも実質賃金の足を引っ張っている。ここに関しては、国民民主党が提唱している基礎控除引き上げによりある程度の労働時間増が期待されるが、社会保険料の130万円(もしくは106万円)の壁は残るため、非正規労働者が年収の壁を意識せずに働く環境を整備するには、こちらの壁をなくすことも望まれる。

また、日本では就業者数の三分の一近くが非正規労働者であるが、実にその半分以上が都合のいい時間に働ける等として望んで非正規労働者となっている。政府も選択的週休3日制の導入を進めているが、すでに民間では週休4日制など、より都合のいい時間に働ける正社員の枠も増えてきている。こうしたことからすれば、官民ともより広く、都合のいい時間に働ける正社員の枠を増やすべきだろう。

日本は労働力不足というが、労働時間の減少や高い非正規労働者比率を見れば、まだ労働力の余地は残されている。日本の実質賃金が長期停滞してきた一因には労働者の努力不足などではなく、バブル崩壊後の政府の経済政策の失敗もある。それによって歪められてしまった価値観を、様々な側面から解凍していくことができれば、日本の実質賃金が安定的にプラスで推移するチャンスは大いにあると期待したい。

(※情報提供、記事執筆:第一生命経済研究所 経済調査部 首席エコノミスト 永濱 利廣)