山田寿美子 さん(79)
「電気がいつも消えてね、電気代が払えないから。晴れた日は、月明りの方が明るいわけだから家から出て、外で火鉢に火をつけて煮炊きしていましたね」

小学校では給食費を払えず、身体検査の日に新しいきれいな下着を用意することもできず…。1年も経たないうちに学校に行かなくなりました。

山田寿美子 さん
「親なし子だとか言われたりして石を投げられたりしましたし。それこそ夏休みの宿題とか誰も見てくれるわけでないし」

小学3年生のころから山田さんは親類の家で暮らすことになります。風呂敷を持って転々とする親類の家に居場所はなく、わら屋根の倉庫で暮らしたり、廊下の角に敷いた風呂敷の上で着替えたりする肩身のせまい日々でした。

山田寿美子 さん
「親類の家に引き取られていったときの夢は今も見るんです。窓から逃げて、おじやおばたちに見つからないように逃げ回る夢を見たりするから、それはやっぱりすごく辛かったんじゃないかなと思いますね」

転機は中学生のとき、岡山県に嫁いでいた姉に引き取られたことでした。姉夫婦の支えで高校に進学し、奨学金で福祉大学に入学。卒業後は広島市の病院で医療ソーシャルワーカーとして働くようになりました。孤独だった幼いころの記憶を打ち消すように、多くの患者と密な関係を築いていきました。

山田寿美子 さん
「原爆に遭って、目の前で子どもを亡くしたり、ケロイドで体に障害を負ったり、じゅうぶん家庭の役割を果たせないという思いは、人に話したからといって決して解決できる問題ではない」

話を聞くだけでなく、利用できる制度を紹介して自立ができるよう生活の改善に努めました。病院に定年まで勤めたあと、2006年、自宅に居宅介護支援事業所を開設し、ケアマネージャーとして仕事を続けました。

自分で車を運転して利用者の自宅を訪問し、それぞれの生活に寄り添い続けましたが、去年の夏、山田さんは80歳になる前に事務所を閉じることを決断しました。

山田寿美子 さん
「がんばった。ずっと赤字で退職金もつぎ込みましたし、これはもう限界かなと能力的にも思いました」

池上さんの自宅を訪れたこの日は、ケアマネージャーとして最後の訪問の日でした。

山田寿美子 さん
「元気でいようよ」

たくさんの利用者に惜しまれながら、事業所を閉じました。

病院に勤めていたときから半世紀以上続けてきた仕事を終えたばかりの山田さん。実は、もうすでに「やりたいこと」があるといいます。かつて事務所として使っていた自宅の一室に、地域の人が集まれる場所を作ろうとしています。

山田寿美子 さん(79)
「地域の人の居場所づくりをしようかなと思ったら、地域包括の方が聞いて、来週、さっそく話に来られるそうです」

― まだまだお忙しくされますね。
「ひとりぼっちをつくらない」

原爆孤児だった自分が苦しめられた孤独をほかの誰も感じることがないように…。元気でいる限り、人とのつながりを作り続けるつもりです。