顔の左半分などに大きなやけどをしましたが、命は助かりました。しかし、母・妹・祖母は今も帰ってきていません。尾崎さんは、顔にケロイドが残りました。

尾崎稔さん
「ここがケロイドじゃった、こう」

自分自身を絵にするとき、顔の左半分は真っ赤に塗ります。先月、取りかかった絵には、戦後、抱えていた苦悩が描かれていました。

尾崎稔さん
「人の前に出たら、顔のこと、みんなが顔を見よると思うんじゃな、頭の中じゃ。しゃべれんのんよ。だんだん、しゃべれんようになった」

列車に乗るときも顔を見られないように座り、人前に出ることも嫌だったといいます。

高校に進学し、ボクシングを始めたといいますが…。

尾崎稔さん
「殴り合って、ここ、つぶしてもらえりゃ、ちいたぁ傷が見えんようになるかのと思ってボクシングをやったわけよね」

そんな尾崎さんを変えたのは、高校の先生でした。その先生は、レイテ沖海戦で撃墜され、顔半分に大きなやけどのあとが残っていました。

それでも堂々としている姿を見て、尾崎さんの気持ちも次第に変化していきました。

尾崎稔さん
「だんだん人の前に出ても、見られても、強くなってきた。だんだん気持ちがね」

原爆の絵を描き始めたのは、77歳のとき。孫から絵の具をもらったことがきっかけでした。

資料館への寄贈は、年に数枚程度でしたが、数年前から突然、そのペースが上がりました。

原爆資料館 学芸課 高橋佳代さん
― これが去年度の一年で?
「そうですね。全部で32枚あります」

「この10年と同じ枚数分をこの1年でくださいました。その枚数もそうですけど、何かあせっているような、そういう感じは見受けられました」

このときのことを尾崎さんは、こう振り返っていました。

尾崎稔さん(90)
「やっぱりね、80代の最後のときに女房が死んだ。あくる年に弟が死んだ。あせるいわいの、今度はわしじゃと。よし、描くだけ早く描こう」