8月6日午前8時15分 「ふと赤い落下傘を見たとたん…」
「原爆の記」と題した手記は、葭本(よしもと)しげ子さんが、書き残したものです。しげ子さんには、3人の子どもがいました。長男の孝彦さん、長女の恒子さん、次女の純子さん。夫は病気で他界したため、女手一つで3人の子どもを育てていました。
1945年当時、長男の孝彦さんは出征、2人の娘は広島市立第一高等女学校(市女、現・広島市立舟入高校)に通っていました。
8月6日は「電休日」で、当時16歳だった長女の恒子さんは、動員先の軍需工場が休みでした。そのため、友だちと遊びに出かけていました。14歳だった次女の純子さんは市女の2年生で、空襲に備えて防火帯を作る「建物疎開」という作業に動員され、広島市中心部へ向かっていました。
そして午前8時15分…。
しげ子さんの手記より
「台所の窓際で外を眺めていると、ふと赤い落下傘を見たと思ったとたん大音響と共に硝子窓は吹き飛び天井は落ち床板もほとんど落ちてしまった。
見ると西北の方は真っ赤に燃え続けている。ああ、どうしよう2人の子供はどうしているだろうと思えば、居ても立ってもいられぬ思いどころか気も転倒せんばかりである」





































