原爆慰霊碑は、被爆から7年後に完成しました。もともとは被爆者の遺骨を納める案もありましたが、遺骨に代わって奉納されたのが死没者名簿でした。

記帳は代々、被爆者の広島市職員が受け持ってきました。
戦後、市の職員となった池亀さん。初めて記帳を担当したのは、43歳のときです。習字が得意だったことから上司に勧められたといいます。
1990年7月 池亀和子 さん(当時48)
「ただただ、冥福を祈る気持ちです」

原爆が投下された当時、池亀さんは3歳でした。爆心地から約2キロの西区観音にある建物の中で被爆しました。顔と頭にガラスが刺さりましたが、家族全員、命は助かりました。
池亀和子 さん
「ガラス越しに外をながめていたら、桑畑からパーっと火の手が上がったのをよく覚えていますよ。母がもう必死になって家の前でおらんだり(叫んだり)していたのも覚えています。『和子ー! 和子ー!』と」

被爆の瞬間は鮮明に覚えていますが、それ以外はあいまいです。
記帳は、3歳で被爆した自分にできる「供養」だと話します。
池亀和子 さん
「わたしも被爆者でありながら、伝達することも何もできないし、まだ、わたし3歳だったから全部は知っているわけじゃないし。だから、わたしにできることはこれぐらいかなと思って」
