沖縄戦当時に読谷村から国頭村に避難し、食料難から、お米と交換して手放した着物が
77年ぶりに持ち主の元に戻ってきました。
この着物から、やんばるの戦(いくさ)と、人々の思いを見つめます。

紫色に染められ、菊や牡丹など色とりどりの花があしらわれた沖縄戦当時の着物。それに思いを巡らせながら、見つめる女性がいます。

国頭村に疎開していた比嘉秀子さん
「懐かしいですね」「13のお祝いに一番上の姉が、うちは養蚕していたんですよ、絹で織ってですね、内地に送って模様付けて、13祝いのお祝いにつけました」
比嘉秀子さん、93歳。77年前の沖縄戦で、読谷村から国頭村に避難し、食糧難から米と引き換えに手放した着物の持ち主だというのです。
比嘉秀子さん
「うちはもう食料がなくて、これとお米と交換したんですよ。宮里家にとっても感謝しています」

この着物の持ち主は、本当に秀子さんなのか、やんばるでの戦(いくさ)とはなんだったのか、数奇な運命をたどった着物の物語を紐解きますー。

去年8月、国頭村奥間。
大田吉子さんは、沖縄戦当時、米と交換した着物を大事に持ち続けていたことで、大きな注目を浴びました。

母から受け継いだ着物を保管していた大田吉子さん
「とてもきれいだった。母が大事にして置いていたんだけど、一度も着たことがない」着物を手にしたのは、読谷村から避難してきた家族と同居していたときだと言います。「この人たちはカエル、バッタ、こんなのしか食べてなかった、かわいそうでよ。自分の大事なものを取り出して、ごめんだけど、これと米3升変えてくれないか」

防空壕などに食料を備蓄していた吉子さんらと比べ、読谷村の家族は食べるものが少なく、そんな状況をみかねて米以外にも無償で食料を分け与えていました。
吉子さんの母・カマトさんは米3升も無償であげるつもりでしたが、読谷村の家族はその申し出を断りました。

母から受け継いだ着物を保管していた大田吉子さん
「(持ち主が)生きてたらすぐあげますよ。(もし親族でも)こんな思い出があったよと、これを置いとって、お父さん、お母さんを思い出して、頑張ってよって言いたい、孫いるんだら持って行ってあげてもいいよ」

着物の持ち主に関する情報は、『読谷村出身』『10数人で暮らしていた』『山川さんという家に同居』とわずかです。
新たな手掛かりを探すため吉子さんは着物を手放し、読谷村の歴史資料を展示するユンタンザミュージアムにその思いを託しました。
それから9カ月後ー。


比嘉秀子さん
「展示されるまで忘れていました。展示しているのを初めて見た時、私がつけている着物に似ているけどね~、と思い出して」
『着物の持ち主を探す』という記事で存在を知った秀子さん。ミュージアムで一目見て「自分のものだ」と確信します。

さらに77年前の記憶も蘇りました。
沖縄本島で鉄の暴風と呼ばれる大量の艦砲射撃が始まった1945年3月。これに前後して本島中南部の住民が北部地域に避難する、いわゆる“北部疎開”が本格化しました。

比嘉秀子さん
「避難しているとき、食べるのがないでしょ。三男の姉が毎晩行きました。芋ほりに、夜。昼間は行かれないでしょ。アメリカーがいるから」

国頭村奥間に到着するも、まもなくしてアメリカ軍が北部一帯に進軍。秀子さんら家族は山中に身を潜め、いつアメリカ軍が襲ってくるかわからない恐怖と飢えに抗う。そんな生活が続きました。再び避難先に戻れたのは、3か月ほどたった後でした。